火はまだ消えていない/『光る闇・冥府の月』後記
リオオリンピックにすっかり夢中になって、だいぶ日が空いてしまったけれど、8月11日の「光る闇、冥府の月」はお蔭さまでたくさんの方々にご来場いただき、無事に終えることができた。ほかの出演者や、会場でお手伝いいただいた方々ともども、とてもいい時間を過ごすことができたのではないかと思う。関係者には心から感謝を捧げたい。
以下、公演の前後になんとなく考えていたこと、いま書いておきたいことを記す。
何回目かの公演の打ち合わせの帰り道、ふと高校生のころ、国語の授業で「自殺とは想像力の断絶のことだ」といった教師の姿が印象的だったことを思い出していた。その後自分は占星術を学んで、実践するようになって、そこで語られていることが徹頭徹尾サイクル論であることが分かってくるにようになるにつれ、たえず循環し巡っていく宇宙の円相は、人の頭ではなかなかその通りに捉えきれないことも分かってきた。
うっかりしていると、日々の現実と同様、宇宙もまた、過去から未来へと延びる退屈な直線に固定化されがちで、せいぜい八方破れのかすかな破線でその本来の軌道をたどるのが関の山であること、それも多くの場合すぐに忘れ去られ、現実の慌ただしさの中で自分自身の在り方もまた再び直線化してしまうことなどを色々な場面で痛感するようになってきた。そういう意味では、やはり人間は緩慢に自殺する生き物なのかも知れないし、ここのところ占星術のやっていることも破綻しきった線をあてどなくなぞるだけの徒労に過ぎないのではないかと感じることもあった。端的にいって、想像力が断絶しかかっていた。
半ばそれを跳ね返すようなつもりで、公演の冒頭、空高くあがる半月の図像を投影するとともに、古くから韓国の海岸部に伝わってきた歌と踊りの原始集合芸術である「カンガンスルレ」の音声を流した。日本でいうお盆の時節、月のあがった晩に女性たちが円陣を組んで、夜通し踊り続けるのだという。彼女たちにとって月は自分たちの肉声と恨(ハン)を聞いて受け止めてくれる先祖であり、祈る対象であり、そして共鳴し一体化することによって自分を解放してくれる導きの糸でもあった。それがどこへ繋がるか。8月11日の真夏の半月の晩も、それは身体の動きに、踊り手に任され、昇華されていったように思う。
公演を終え、結果的には、人の想像力はまだまだ捨てたもんじゃない、と自然の背筋が伸びるような感覚が改めて自分の中に湧いてきた。天体、月、星をめぐる「舞」と「星読み」、「切り絵(境界剪画)」のコラボが講演のテーマだったが、踊り手も語り手も作り手も、何をどうするべきか真剣に悩んで、そこに何がしか相感じあうものがあったからこそ、作為を超えた展開の妙や不思議さ、怪しさおもしろさが、ぎくしきゃくとした齟齬や緊張によって生じる隙間を埋めるように湧いてきてくれたのだろう(そういえばリハではかみまくり、固くなって全然うまくしゃべれなかった)。
人が集い、場が開け、月星を語り、影絵が映され、人が踊る。そこでなぜかは分からないけど、気持ちがゆらゆらして、伸びやかになった。星も踊りも、今回は影絵も一緒になって、くるくるくるくると回っていた。円を見るとき、視線の軌跡は自然と螺旋を描くそうだが、あの時あの場では、自らを貫く直線はゆるやかなカーブを描いて、月の向こうの彼方遠くをへ回り、後頭部のどこかへ戻ってきているような感覚が共有されたような気がした(これを“思い当たる”とも言う)。そういう感覚が集団で共有された場は、なんとも言えない磁力が宿る。無数の円相、無数の中心、至るところにある渦、その気配……。
それは一つの終わりを暗示する、死のある世界。同時に、そこになにか明るく深い、透明な萌芽のようなものを感じて(もののけ姫のダイダラボッチってこんな感じなのかな)、また絶えることなく生きていけるという感覚を得たのかも知れない。これも土星海王星の相克から生じてくるものの一つだろうか。
ただ少なくとも、そうした“感じ”というのはイデオロギーとして、自分を棚上げにした議論の中で確認されるものでは決してない。あくまで中心に自分を置いたコスモロジーを通して感じあい、交歓しあうものだ。おそらく、それこそ占星術にかかわる者が目指す恩寵なのだろう。そして人とタイミングとが共にそろった舞台では、そこに一瞬光が当たる。電子や光が、人に観測されると、波がちぢまって粒子としての姿をあらわすように。
いまはもう、粒子が再び波となって広がるように、それも闇の中へと消えていったけれど、祭りというのは本来そういうものだ。時が移ろい、人や関係性は変わっても、いずれまた舞台は整う。きっと自分もまたそこに出会える。想像力の火はまだ消えていない。今そんな気がしている。
『光る闇・冥府の月』~GIFT vol.3~
開催日:2016年8月11日
場所:Half Moon Hall
出演者:
Emine(踊り)
香織(舞)
Yoshika(dance)
SUGAR(星読み)
杵淵三朗(境界剪画)
写真:
Macoto Fukudaさん
唐亨さん
山下潤さん
8・11公演の『光る闇・冥府の月』について
下記、facebookイベントページより詳細を転載しております。
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『光る闇・冥府の月』~GIFT vol.3~
GIFTプロジェクト第三章。
テーマは、「天体」、「月」、「星」。
踊りと、星読みの二部構成です。
外に広がる天体の宇宙と、
内に広がる人体の宇宙。
互いは呼応し、絶えず変化している。
満ちては欠け、欠けては満ちを繰り返し、螺旋を描く。
この日の星を読みとき、踊りに投影します。
八月十一日は
雲間から太陽が現れるように、
新たな扉が開かれる日。
星を知り、自分を生きる。
上弦の月夜。
星に導かれ、新たな扉を共に開きます。
出演:
Emine(踊り)
香織(舞)
SUGAR(星読み)
Yoshika(dance)
杵淵三朗(境界剪画)
イラスト:She Who Is
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日にち 2016/8/11(祝日)
会場 『Half Moon Hall 』
(下北沢駅から、徒歩8分)
開場 17:15
開演 18:00
閉場 20:00
参加費 (席+1ドリンク)
前売り券:3000円
当日券:4000円
ご予約: https://ws.formzu.net/dist/S50796510/
お問い合わせ:
meifunotuki@gmail.com
(メイフノツキをローマ字表記)
ご予約は、事前振り込みとさせて頂きます。
確認のとれた順に予約番号をお知らせします。
席が限られていますので、早めにご予約ください。
前売り券の受け付け締め切りは、8/8(月)までです。
『Half Moon Hall 』
〒155-0031
東京都世田谷区北沢4-10-4
アクセス:
小田急線、下北沢駅から、徒歩8分(小田急線、京王井の頭線)
東北沢駅から、徒歩6分
主催:GIFT Project
人はなぜ空想を現実として知覚するのか
先日、受講者の方から講座が終わった後に「太陽と月(の占星術的な解釈)を自分自身そのもの、ないしそれに近いものだと思い込む傾向にあるのはなぜか?」という質問を受けて、その場であまりうまい返答ができなかった。そのことについて、整理がてらここに少し書いておきたい。
太陽と月は、太陽系宇宙の見かけ上の動きの中に人間の本質や人生の諸相を見出す占星術の中心概念であり、解釈的には公的な顔(太陽)と私的な顔(月)の両面を表すとされている。けれど太陽も月も、当然といえば当然のことだが個人の所有物(もの)ではない(他の惑星も同様)。より厳密に言えば、それらは“私ならざるもの”であり、「なぜかは分からないがそうしてしまった」という風に“私以外のもの”が“私”の中に入ってきてしまう事態(こと)であると言える。つまり、“私”とは他ならぬ私であるはずなのに、実際には多くの瞬間で“私ならざるもの”とともに生きており、開かれている。しかし、どこかしら固定しなければ“私”という気付きもまた生まれてこない。これが一筋縄ではいかない“私が私であること”をめぐる根本的なジレンマのややこしいところであり、面白いところでもある。
そもそも「太陽と月(の解釈)こそ私そのものである」といった言い方の何が問題なのかというと、理屈以前に“息苦しさ”を強めてしまうからだ。二つの天体とその組み合わせに一定の自己同一性をもつ「私らしさ」を据えれば、安定した生活や充実した対人関係を築いて“身を固め”たり、“大人になる”ことの助けにもなる。ただし、あまり身を固めすぎると、用意された型にハマり過ぎてかえって潰しがきかなくなるということが起きてくる。もちろん、かと言って自分にかまけてばかりいれば世に出ることもできないが、息苦しさが次第に極まってくると、おのずと人生の道行きも途絶え、行き詰まっていく。現代において、息苦しさから解放されようと人が占いや占星術を参考にするのだとすれば、これでは本末転倒だ。
行き詰まるタイミングや形式はケースバイケースだけれど、大抵は、自分と異なる価値観の言葉や人間、あるいは築き上げた“私の王国”を相対化するような問題群を遠ざけ、排斥・封殺し、いつの間にか自分に都合のよい言葉だけを探し、語られざる/隠れた真理をそこに還元・制御するようにして自己正当化が進んだ結果、墓穴を掘るようにして起こっているように思う。自業自得なのだが、その大元にはオイディプスのごとき傲慢(hubris)があるのではないか。人は生きている限り、安定した自己同一性へと安らおうとする。それどころか、自存のためなら手段を選ばないところさえある。凄まじき自己防衛本能のとりこであり、その傲慢さこそが時に人を英雄や超人にも仕立て上げてきた一方で、同じ分だけ、あるいはそれ以上に当事者の想定をこえた悲劇をも生み出してきた。
こうした傲慢さ(hubris)が真理と対立しつつも、深く結ばれるようにして在るように、自己同一化した生き方のハマりこんだ自己完結や既存の定義付けが、生の、そして私の語られざる/隠れた側面(真実)によって異化され、圧倒(無化)されつつ、挫折やゆらぎ、反転逆転によって破られることを、人は恐れつつもどこかで求めている。そして凄まじき傲慢の“破れ”を通して、固定された私を中心とした閉鎖系としてのコスモロジー(息苦しい存在状態)が開け、大きく息を吸い込み、いのち(意の乳)を養うことができるようになる。風がふき、息が続き、思いがけない方向から物語の続きが紡がれ、狭い自己限定や生の有限性が過ぎこされてゆく。
考えてみれば、個人的にもそうした“破れ”の経験について物語ってくれた人物との出会いが、占いを始めることになったきっかけだった。作家の車谷長吉が、「生が破綻した時にはじめて人生が始まる」と書いていたのもこういうことかも知れない。占星術を通して私や他者の在り方を語る言葉も、語りえぬものからの問いかけや、圧倒される感覚を担い、己れの傲慢さを真摯に見つめるものである限り、逆説的に豊かさを内包するものになるのだと思う。
“私”とは傲慢さの度合いに応じて伸びるピノキオの鼻のようなものではなく、本来、生と死のはざまでゆらめく風や、吹きわたる息吹、流れの交錯する十字路のようなものとして、あるいは宇宙の片隅のささやかな吹き溜まりのようなものではないか。そうしてたえずゆらぎ、そよぎ、漂泊しているからこそ、「私」は親と子、男と女、生と死、自我と時空の境界を越えて、むすび、つながってゆける可能性に開かれている。
そういう視点で見てみると、やはり太陽と月は、私そのもの(実体とそこにヒモづく属性)と言うより、傲慢さや息苦しさにハマり込みがちな“私”の自己同一性を解消せんと働きかけ、見守り、真理の響きを時に葉を揺らして伝えてくれる遊行柳のような古木であったり、先祖や親の想いを伝える水面の波紋として映じてくる。私はそうして“私以外のもの”に脅かされたり支えられたりしながら生きているが、だからこそ、あくまでそれに気付いて、生きた思いを結晶化させていくのは、現にいまこここにある地球上の私自身なのだ。
願わくば、人や運命に翻弄されないよう、あるいは馬鹿にされないために生きるのではなく、真理の響きにさらされつつも、己れの傲慢の滑稽さを笑い、出会った人に笑ってもらえるような自分でありたいし、そこから語っていくのでなければ、と思う。
本の帯とアスペクト
地球から見た時に或る惑星同士がとっている一定の角度のことを、占星術では「アスペクト」と呼ぶ。これはもともとラテン語で「見ること、注視」などを意味する“aspectus”に由来した言葉で、惑星同士がたがいに視線を交わし「アスペクトする」とき、その角度の種類(つまりどんな視線か)に応じて、両者は協力的ないし対立的に働くとされている。自分はそんなアスペクトを、占星術を勉強し始めた頃からとりわけ魅力的だと感じてきた。
1947年に出ているNicholas deVoreの『Encyclopedia of Astrology』によれば、古い時代には“Familiarity”とも呼ばれていたようで、これは「よく知っていること、精通、親密さ」という意味だ。視線が通い合った惑星同士の臨場感を、実になまなましく表してくれているように思う。
シンボリズムにおいて、光が「知性」を表すとすれば、目は「知性を受容する機能」であり、「認識」そのもの。あるいは「心の窓」であり、「愛」の宿る場所でもある。そんな目からビームのように発された視線が交わることで、受容や反発や軽蔑や憧憬が発露して、そこから様々なドラマが展開されていく。逆に他の誰か何かの視線と交わらなければ、あるいは誰からも見られもせず、誰の目ものぞき込むことがなければ、出会いも別れも起きはしない。何も始まらず、何も終わらないまま、時間だけが過ぎてゆく。それはたまらない苦痛だ。
そんな苦痛について、個人的にも覚えがある。高校生の頃、一時誰とも目を合わせないで過ごす日々が続いていた。当然何も起こらず、始まりもしないままひどく焦燥感に駆られ、毎日書き続けていた日記には、恐るべき思考の堂々巡りが膨大な量の文字列となって並んでいった。後になって「無明」という言葉を初めて知ったとき、真っ先にその頃書いていた黒々とした日記帳のことが頭に浮かんだ。
そんな無明を開いてくれたのが、本屋での立ち読みだった。もっと厳密に言えば、たまたま近くを通りかかった自分の目を引いてくれた本の帯だった。そこにはこう書かれていた。「アパート(a part) 上には誰がいる。 下には誰がいる。隣りには誰がいるのだろうか。特別というものはなく、単に魂の過程に見合った役割の技」。あるいはこうだ。「この世界は、まったくの偶然で、別様の世界に変化しうる」。最近なら、こんな帯とも出会った。「人間はそれほど速くは変わらない」。そんな帯を目にして、はじめて自分から視線を投げ返した。投げ返すように、本を読んだ。そうすることがなければ、自分は永遠にあのままだったように思う。本の帯は、無明に差した一条の光だった。
本の帯は、本が投げかけてくるウインクだ。自然と目を引き、そして目が合い見つめあう。思わず本を手に取り、その中でこれまで考えたこともなかったような言葉と出会う。けれど、どこかはじめて会った気がしない。経験的にも、そういう感覚が起こったときは、自分の中で確実に何かが変わる。それは、あるいは人の中の惑星が「アスペクトした」瞬間と言えるだろう。そう、本の帯はアスペクトへの“予感”そのものなのだ。
実際、本の帯に注目して本屋さんの中を歩いてみると、本というものが実にさまざまな角度から僕たちにウインクを投げかけてくることがよくわかると思う。「120万部突破!」や「〇〇賞受賞作」といった大げさで尊大な帯が目につく一方、「とにかく泣ける!」という至ってストレートなものもあるし、「<絆>は麗しい言葉、だからこそ、暴力が潜んでいる」など、少しハッとさせてくるものもある。大抵、初めはこんなものじゃ自分は引っかからないぞと気を張っていても、隈なく書店を歩き回れば、必ず一つや二つ、自然と目線が吸い寄せられる帯に行き当たる。そして、不意に時が止まる。
もちろんどんな帯に惹かれるかは、好みもあれば、年を重ねるごとに変わりもする。おそらく日によっても変わる。ただ一つ確かなのは、その時々にいかなる視線に惹かれ、どんな視線を投げ返しているかにこそ、その人の心の在り様が如実に反映されるということだ。
とはいえ、よく考えてみると、自分がある対象のどこに惹かれているのか、あるいはその対象をどう“見ている”のか?という問いは非常に微妙な問いでもある。それは例えば14歳という年齢がひどく複雑な問題を孕んでおり、「第二次性徴期」や「中二病」といった一面的な言葉だけでは語りきれないのに似ている。あの頃特有の空気感のようなものは、どうにも言葉では説明しようがない。あるいは、28歳という年齢を迎える頃に多くの人が経験するであろう「自分はこれで“一人前の大人”と言えるだろうか?」というくぐもった自問と、14歳の説明できなさと、両者の何がどう違うのかを明晰な言葉で説明しようとするには、誰しもがまず一度居住まいをたださなければならないだろう。
或る惑星同士がどんなアスペクトを取っているか、またそこにはどんな意味が宿っているのかを考えるのは、そうしたこととすべからく似ている。少なくとも自分にとっては、黒々とした高校生だったあの頃、たまたま目を引いた帯になぜ惹かれたのか、そして手に取った本の中で何を見つけ、そこで何が変わったのかを考えることと等しい。本の帯ひとつで人は変わる。だとするなら、アスペクトひとつで人生が変わらないはずがない。ウインクは一瞬。そこで醒めたのか、惚けたのかのかは当人次第。時が止まったような、沈み込むようなあの一瞬を、アスペクトを通して思い出そうとしているだけなのかも知れない。
ここから宣伝ですが、来週4/22から、「アスペクトを学ぶ―西洋占星術マスター」を朝日カル新宿校さんでやらせていただきます。全3回をかけて、とことんアスペクトだけを扱うのは初めてなので、教室に持っていくだけの熱量をこれからじっくりと作り上げていきたいと思います。
天地一つの風に包まる
気づいたら風が吹いていて、季節が変わっていた。
ここ数日、特にそんな感じがしていた。
今日午後に打ち合わせに伺った会社の方とも、これで桜が散ってしまうね、
という話をしていた。なんだなんだ、もう桜の季節も終わりか。
ちょっとさみしい。
帰って、最近友人から聞いて手に入れた野口晴哉の『偶感集』をめくっていたら、
「風」と題された次のような文章が載っていた(一部引用)。
先ず動くことだ
隣のものを動かすことだ
隣が動かなければ先隣を動かすことだそれが動かなければ次々と動くものを多くしてゆく
裡に動いてゆくものの消滅しない限り 動きは無限に大きくなつてゆくこれが風だ
誰の裡にも風を起こす力はある
動かないものを見て 動かせないと思つてはいけない
裡に動くものあれば必ず外に現れ 現はれたものは必ず動きを発する自分自身 動き出すことが その一歩だ
ああ、今日吹いていた風は、どこかの誰かがそっと動いて起きた風かも知れないと思った。
そんな風に吹かれて揺れて、そわそわして、自分も思わず一歩踏み出したんだろうか。
それなら、自分が起こした風で、あるいは今日他の誰かが、どこかでゆらいだり、
舞ったり、飛んだり、声を発して、きしんで音を出して、共振したりしていたのかも知れない。
野口晴哉はそんな世界の在りさまを、「天地一つの風に包まる」と表した。
今日の心中には、間違いなくそんな風が吹いていた。
- 作者: 野口晴哉
- 出版社/メーカー: 全生社
- 発売日: 1984/09/15
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2.1〜2.7日記
2月3日(水)
朝から体がだるい。昨日2日は正午すぎから夜9時までほとんど通しで鑑定。一昨日ついたちは昼過ぎから打ち合わせをして、次の日の始発で帰宅。週の前半から飛ばし過ぎた。終日静養。
2月4日(木)神保町と蠍座10度について
昼、神保町の古書センターの2階にあるボンディでビーフカレーを頼むが、肉が食いきれず、少し残してしまった。やはり体が万全でないときは物が喉を通らない。ランチ後に鑑定。夕方、もう一方鑑定。今日のおふたりは、それぞれ違う意味で、立春らしい人生のタイミングを感じさせる鑑定だった。それにしても、神保町の夜は特に冷える。けれど、居心地がいいのでつい長居してしまう。少しこの場所について書いておこう。
東京星図で神保町界隈は蠍座10度あたり。サビアンシンボルでは「昔の仲間と再会する食事会」。原文だと「Fellowship supper」でdinnerのように盛大で、いかにもメシを食うぞ食うぞというニュアンスはない。苦労や体験、ものの見方を分かち合うためのささやかだけれど、心のひだの奥まで何かあたたかなものが届くような場。初めて会ったのにそんな気がしない、気の置けない関係性が生まれる場。改めて、そんな場所に日本最大の古書店街があるのは不思議であり、どんぴしゃという気もする。ジョーンズは蠍座10度に、「FRATERNITY 同胞愛」というキーワードを付けているが、人はみな象徴的な意味で<家出人>であると考えてみれば、自分にとって特別な一冊を手に取り、読みふけっているときの感覚というのは、出家者や修行者が自らたどった長い労苦の道程を分かち合うような同胞愛と通じているのかも知れない。
神保町の現事務所は昨年の10月、知り合いの伝手でたまたま借りることができたが、その頃はちょうど自分の出生図の木星にトランジットの土星が重なるタイミングだった。そして今年は、プログレスでも出生図の木星にP土星が合になる。そういうタイミングもあり、これから自分が取り組もうとしているソーシャルな営みについて考えていく上でも、神保町という場所には興味深さと縁を感じる。
2月5日(金)宇都宮へ出張(商人塾)
宇都宮の岸会計事務所主催のセミナー「商人塾」でのゲスト講演へ。この仕事は2013年春から続けさせてもらっているので、もうすぐ丸3年になろうとしている。はじめは内容に悩み紆余曲折していたが、最近は「息と運」という大枠のテーマにからめて話すことにしてから、その時々に学んだり考えたりしたことをまとめるための場になっている。
今回は立春、旧暦上のお正月ということもあり、どんな心構えで新年のスタートを切っていけばいいのか、ということについて話をさせてもらった。その際、チェさんの教えや白隠禅師の『夜船閑話』を改めて参照。今回は話すことを事前にA4一枚にまとめたので、下記その内容を記載。
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新しい年というのは、古い年が舞台袖へと去っていって、新たな年と「違う」からこそ迎えられるものですよね。さて、この「違」という字ですが、これは織物の横糸を表す「緯」という字の右側に、「道」や「歩くこと」を意味するしんにょうをもってくることで、出来上がっています。
実は、この「緯」という字には、①織物の横糸、②東西の方向、左右、といった意味の他にもう一つ、③(儒教の教理を説く「経」に対して)未来の吉凶をうらなう書、という意味もあります。そうした書物の一つが占いの古典である「易経」であり、あるいはより身近な例として、皆さんが新年にひいている「おみくじ」がある訳です。
ただ、そうした時が違い、過去と未来が交錯するときというのは、たいていの人の場合、なんだかんだ過去へと後ろ髪がひかれてしまっていたり、あるいは考えごとや心配事で心がどこかへ行ってしまっていることがほとんどかも知れません。でもだからこそ、そうしたタイミングで上手にきたる未来へと心を向けかえることのできる人を、「“偉”人」と呼ぶんですね。彼らは自らの過去の失敗やトラウマだけでなく、業績や栄光にもひきずられることなく、未来へと向けかえることができるからこそ、偉人であり続けられるのだとも言えます。
では、未来とは、どこにあるのでしょうか?感覚的にで構いません。どっちと聞かれたら、皆さんはどこを指さしますか?あるいは、子どもにも分かるように教えてくれ、と聞かれたら……。
先に今日用意した答えを言ってしまうと、私たち日本人本来の考え方では、どうも未来というのは「下」にあったようです。たとえば、そのことを象徴的に表しているものに「ふる」という言葉があります。例えば時間の経過を表すときに「経る」と書きます。あるいは、未来にものものしいものが届くとき、残されているときには「古る」と書く。こうした「ふる」はまた雨のようにパラパラと「降る」ものであり、雨はそうして天地を繋いでいる。また「魂振る」といえば、弱まったり遊離するやましいを呼び起こし、鎮める呪術的行為のことを指します。
芭蕉が中尊寺金色堂で詠んだとされている俳句に「五月雨や 降り残してや 光堂(ひかりどう)」というものがあります。この句が表しているは、心中の歴史的回顧の詠嘆とされていますが、やはりここでの「降り」は、「経る」「古る」「振る」などの掛けことばとなっています。私が教わった先生によれば、この句の世界観の前提には「私たちの世界は<ふり>続けている」という見立てがあり、そしてよくよく感じてみると、そうした世界のただ中で「ふるくなれないもの=光堂」としての自分自身が見出されてくるのだ、と。これは、先程の「“偉”人」の心の在り様に近いものを詠んでいるのだと言えるかも知れません。つまり、偉人とは、どんなに時がふることがあっても、心を鎮め、まだ顕在化され切ってない、汲み尽くされていない自分自身を見出して、下へと、新たな自分へと至ることができる。つまり“偉”い人とは、つねに新たな自分を見出し続ける人のことなんです。
逆に、出世しても、ちやほれされることを望んでいたり、人に囲まれることにばかり気を取られている限り、その人はちっとも偉くない。「鎮まる」とは尖っているものの先端(△)の上に置かれた「still」のような静かさではなく、むしろ下に沈んでいくように、静の中に動がのみこまれていく(▽)中で生まれてくる滴(しずく)のようになることであって、そこにこそまだ現れ出ていない未来があり、そこへ人は、根源的に安らいでいくこと、「閑か」になることで到達することができる(cf 「閑かさや 岩にしみいる 蝉の声」)。そこは、つねに移り変わっていくもの(流行)とは異なり、あるとは言えないんだけど、それなしには私たち自身もありえないもの(「不易」)として、ふるくならずに残り続けている。仏教ではそれを「空」というのだそうです。
私たちはふりつづける世界の中で、隠されて見えなくない未来=「下」に支えられて生きている。そうだけれども、やはりというか何というか、「上」へ上へ、世に出ようと必死に浮ついてしまう、過去の自分に捕われ続けてしまうのが人間であり、浮世というものなんですね。ただ、そうして上をのぞむ人間が一方でどれだけ未来に背を向けているかを、例えば江戸時代中期の禅僧である白隠さんも、口を酸っぱくして言及しています。白隠さんが晩年に残した「夜船閑話」という書物があって、いわゆる養生訓として知られているんですが、じつはこれも「緯書」なんです。
『夜船閑話』引用。
「養生は国を守るが如し」、「明君聖主は常に心を下に専らにし、暗君庸主は常に心を上にほしいままにす」
「人身もまた然り、道を究めてその極みに達した者(至人)は、常に心気を下に充たす」「(そうすれば)七情も動くことなく、四邪に侵されることもなく、医者にかかることはない」
「「荘子が「真人は踵で息をするが、普通の者は喉(のど)で息をする」と言うのはこのことである」
→政治も養生も、下に心を向けられるかが鍵なのだと言っています。
『夜船閑話』引用。
「(易で)五陰が上にあり一陽が下にある卦を<地雷復>という。これは冬至の候である。真人の呼吸を表したものである」
「五陰が下に一陽が上に止まるのが山地剥で、九月の侯である。自然がこの気象を得るならば、林の木々は枯れ百花もしぼみ落ちる。これは、凡庸の者は喉で息をするというところを表しており、この象を得るならば、身体は衰え、歯も抜け落ちる」
「下に三陽、上に三陰のあるのが地天泰といって正月の候である。自然がこの候を得るならば万物は発生の気を含み、百花は春のめぐみをうける。至人が元気を下に充実するところの象である。人がこれを得るならば、気血の循環は充実し、気力勇壮となる。」
気が下へきちんと降りていれば、陰極まっても再び陽となる。「地雷復」の卦は、生き残っているという様を表します。それはrest余生を生きていると感じるとき、人は自然はrestore回復し、安まるということでもあります。いのちのV字回復!それを自然に行えるのが真人すなわち仙人の深く静かな呼吸なんですね。
逆に、うわべばかりで実質が衰えつき、今にもはぎ落されようとしている「山地剥」の卦は、つい浮ついてしまい、何かと現実に振り回され、呼吸も浅くなって、我が身の置き所を見失ってフラついている私たちの姿を表しています。
そしてそれら2つの対極的な卦の中間で、内に陽が入り、外に陰が押し出されているのが「地天泰」。これは天地が交わって陰陽が和している様子であると同時に、内心たけく、外面おだやかなる君子の性格も表しているのだそう。先日は節分でしたが、まさに「鬼はそと、福はうち」ですね。「泰」というのは「過不足がない」という意味でありますから、出すものを出して、入れるものを入れれば、それで一丁あがり。きちんと循環させていれば、何事も長続きするのだということですね。
このように緯書である易経は、呼吸の神髄に触れるものでもあり、それはすなわち、新たな年や、日々違っていく時を迎えるにあたって、私たちが何をどう心がけるべきかを示してくれているのだと言えます。
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講演後は、親戚宅へいき、叔父や婆さんと、入院中の爺さん(厳密には遠い親戚だが)のお見舞いへ行き、夜は事務所の新入社員歓迎会に参加させてもらう。この事務所では昨年末から「類人猿診断」を取り入れており、実際事務所の所員の方はみな、ネームカードの横に自分のタイプを記載しているのだけど、その導入成果の一つに、うまく使えば飲み会が盛り上がる、という項を加えられるなと思った。
2月6日(土)宇都宮出張(人と会う)
やっと復調。午前中はたまたま出張帰りに帰省したはとこをと久しぶりに話したりした後、改めて病院に寄った。そこで、親戚のおじさんに遭遇。まともに話したのは、たぶん小学生以来じゃないだろうか。古本屋で「こち亀」を何冊か買ってもらったことを思い出した。そこから親戚一同で昼食をとった後、なりゆきで、はとこの彼氏の車で某社まで乗せていってもらった。小さい頃から知っている親戚の女の子の彼氏と会うのは初めてではないけれど、やっぱり複雑な気分だ。もっとも、彼の方が複雑だろうが。
夕方まで鑑定。この方とお話しするのもすっかり恒例の行事のようになったけれど、まさに自分が逆に鑑定されているのだということを最も痛感する鑑定かも知れない。最初、緊張してか、気を回し過ぎたか、どこか会話に気が通わなかったが、途中で20分くらい先方に用事が入り部屋でひとりになれたので、しばらく瞑想。それから、話の方もいろいろと調子が整ったように思う。最後、仕事道具をじっくり見せてもらったのはいい経験だった。22時過ぎに帰宅。
2月7日(日)イティハーサdeシャベル
急病人が2名出たものの、漫画「イティハーサ」について語る集いを神保町で開催。この漫画は、2000年以前に書かれた(1987年に連載開始、1999年に完結)1万2000年前の日本を舞台にしたSFファンタジー作品でありながら、びっくりするほどイマ的なテーマがてんこ盛り。自分以外の人が、この作品を通じてどんなことを感じているのか興味があったので、そういう意味ではとても有意義な会だった。
イティハーサについての考察は、また改めて色々と書いていきたいが、今回は参加者のひとりが言っていた「イティハーサを読んでいると、日記を書く手が止まらなくなる」という言葉が印象的だった。確かに、読後にかなり内省が促される触媒的作品であることは間違いない。個人的には、次回はジョージ・オーウェル「一九八四年」との比較から「悪の働き」についての考察をもう少し掘り下げてみたいと思った。
なお、去年の暮れに買って不発だったプロジェクターがようやく活躍してくれ、そこでもさりげに大歓喜。打ち上げも楽しく、2回目もぜひやりたいねと話して解散。終電一本前の電車で帰宅。ちなみに、アワビの煮貝に干しホタルイカのライターあぶりは最高のアテだった。「十二六」というどぶろく、「古代甲州」というワインも◎。お酒の味を俳優やタレントに置き換えたり、相撲の決まり手や試合運びに喩えたりする遊びはぜひまたやりたい。
中埜酒造 國盛 純米どぶろく [ 日本酒 愛知県 720ml ]
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1.25〜31日記
1月25日(月)
約半年ぶりのチェさんの古典勉強会に出るため中野のウナ・カメラ・リーベラへ。いつものように座禅和讃をみなで唱和してから、白隠の『夜閑船話』について、今日は改めて大枠の話。
のっけからチェさんに「法に触れる」とはつまりどういうことだと思うかね?とにじり寄られ、押し黙る。白隠はね、それは「隻手音声(せきしゅおんじょう)」なんだと。音をきいて、パッとひらめくような体験、ただしどうも、聞こえないはずの音をきくことなのだいう。ここでいう「きく」とは、耳で「聞く」ことに限定されず、鼻や腕が「効く」「利く」ことだったり、あるいは匂いのことだったり、色や味であったりする。つまり共感覚ないし、複数の感覚をうまく統合してはじめてうっすらと感受される類のものであり、そうしたものへ研ぎ澄まされていく営みの先で法は触れ得る。あるいは、聞こえるものがサッと消えたときに、はじめて聴くことができるものであり、それは沈みこむような静けさの内へ、まるで雫になったように落ちていき、下へ下へと心が鎮まっていくプロセスとも連動していると。
ここからしばらく、チェさんならではの展開で日本の古語やギリシャ語、ドイツ語などの類語の紹介連鎖が飛び石のように続いたが、総合するに、法に触れるとは、深淵へと身を鎮めていった末に到来する境地なんだ、という話であったように思う。「下なるものに支えられているにも関わらず、生きてる内にどうにも浮ついてしまうのがこの世なんだ」という言い回しは特に気に入った。人は世に出ようと、上へ上へとますます浮ついていき、人に囲まれるかも知れないが、そういう人間がどれだけ真実に背いているか、と白隠は説く。
以下、『夜船閑話』から引用。
「養生は国を守るが如し」、「明君聖主は常に心を下に専らにし、暗君庸主は常に心を上にほしいままにす」、「人身もまた然り、道を究めてその極みに達した者(至人)は、常に心気を下に充たす」、「荘子が「真人は踵で息をするが、普通の者は喉(のど)で息をする」と言うのはこのことである」。
「(易で)五陰が上にあり一陽が下にある卦を地雷復という。これは冬至の候である。真人は踵で息をするおいうところを表したものである」「下に三陽、上に三陰のあるのが地天泰といって正月の候である。自然がこの候を得るならば万物は発生の気を含み、百花は春のめぐみをうける。至人が元気を下に充実するところの象である。人がこれを得るならば、気血の循環は充実し、気力勇壮となる。」「五陰が下に一陽が上に止まるのが山地剥で、九月の侯である。自然がこの気象を得るならば、林の木々は枯れ百花もしぼみ落ちる。これは、凡庸の者は喉で息をするというところを表しており、この象を得るならば、身体は衰え、歯も抜け落ちる」など。
出世して世に浮ぼう浮ぼうと人はするけれど、「満足」という言葉を表す漢字に象徴されるよう、心気が下へ満ちることがいかに大事であるかという今日のチェさんの話、個人的には、芭蕉の「閑さや岩にしみいる蝉の声」という句や、アフリカのシャーマニズムの伝統においても感覚は五感ではなく「12感覚」とされていること、ホロスコープのMCとICのことなどを思い出し、結びつけながら聞いていた。それにしても易は息の極意にも通じるのか、と改めてハッとさせられた。
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1月26日(火)
夜、奈加野で田中さんと石川さんと飲み。深夜ラクさんと合流。アジの骨を揚げたやつが美味しいぞと思ったら元気が湧いたが、いま自分の骨を揚げてもあんまり美味しくなさそうだなと考えていたら最後かなり酔っ払った。
1月27日(水)
夜、渋谷アルカノンさん主催のバカヴァッド・ギーターの勉強会へ。3回目。アートマンとブラフマンの合一についての話。なかなか理解するのが難しいところだと思う。
個として在ることにこだわり過ぎてしまうと、人はどうしても誤ったエネルギーの使い方をするようになってしまうけれど、ちょうど波の一つ一つと海がつながっており、海から色々なエネルギーが突き上がって、それが風とぶつかりあって波ができていることに気がつけると、もっとスムーズになっていく。この波と海のたとえ話は確かに美しい比喩だし、どこか射手座2度のサビアンシンボル「白波に覆われた大海」のビジョンを連想させる。
「ダルマ(法)に触れる」とは、波が海とつながり、風を受けているように、「求められていることに気付き、受け止め、応えていくこと」という話もあり、月曜のチェさんの話とシームレスな繋がりに喜びが湧く。ちなみに古代インドのヴェーダ思想では、「下へとおのれを鎮める」とは「瞑想する」という実践へと直接結びついていく。
では瞑想とは一体何をしているんだろうか。昨年春のヴィパッサナーの瞑想合宿で一番よく言われたのは、「Observe objectlyただ観察しなさい」ということだった。今日の話でいえば、観察者としてのアートマンに即しなさいだし、グルジェフのいう「ダブル・アテンション」、すなわち、対象を見ている視線と、見ている自分を見ている視線の同時敢行をせよ、でもいい。そうしていると、波であると同時に海であるところの感覚=鎮まりが深まっていく。ちょうど電子や光が粒子であると同時に波動であり、観測前は波動として空間中に広がっているのに、観測すると波動がちぢれて粒子としての姿を表しては、それがやがて再び波動となって海へとかき消えていくのを繰り返すうち、賢治の言うような「わたくしといふ現象」としての「仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明」が浮かびあがるように。
- 作者: 上村勝彦
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1月28日(木)
ここのところ、目が醒めたら最初に猫の気配を探すのがすっかり習慣になった。まず枕元の近くから、そして次第に室内に注意を広げていく。布団から出るのが億劫な冬は、猫のぬくもりが有り難い。布団を出て猫と顔をつきあわせ、それからその日のことを考える。何をするんだったっけ、今日は……。先週末に、朝日カルチャーセンターでのサビアン占星術講座と、ラクシュミーさんコラボでの参加者と2016年を占う講座をやって以来、今週は毎日そんな感じだ。
今日は近くの林試の森公園を5キロほどランニングした後、本読みながら風呂に入って、猫の世話をして、喫茶店で作業。夜は急きょ鏡さんのアカデメイアの「魔術と占星術」に関する新講座を見学に行くことになった。田中さんも来るのだと聞いた。
そういえば講座にいく前、鑑定書の書き出しを考えていて、ふと自分の出生図に重ねた土星のトランジットの動きを再確認してみようと思った。今年6月にちょうどDSCを超える一度手前まできて土星は逆行。最終調整に入り、改めてDSCを超えるのは11月終わり。
ロバート・ハンドの言葉を借りれば、それは大学1年生の春に土星がASCを通過して以来14年間のプロセスのひとつの「到達点」であり、「これまでの結果として自分には何ができて何ができないのか、自分は何であって何ではないのか、そういったおのれの再定義を、自分なりの言葉でしていくことということであり、その出来に応じて周囲から再評価されていくことになるのかも知れない」。秋までにどう固めてくれようか。おのれ。
1月29日(金)
午後から神保町の事務所で鑑定。2時間弱くらい話をして、「ちゃんと占星術の鑑定してもらうの初めてだったんだけど、落語みたいだよね」という指摘をいただいた。息の芸術。まだ道は遠い。それで今年は意味から離れ、ただなんとなくいい声を出せるようになりたい、声の幅を広げたいなど考える。それから帰り際にデヴィッド・ボーイの死後を人々がどう生きるか?ということへの私的な霊感話を聞いて、土星海王星みたいな話だなと受け止める。この反応の仕方、ややワンパターン気味かも。
夜、バランガン時代の生徒さん達と新年会。壁に水槽があったり、いかにも陳腐な合コンが夜な夜な行われていそうな内装だったけど、料理は意外とおいしくて侮れない。面子が面子なため、とりあえず3回くらい息が苦しくなるほど笑った。今日が「息」がキーワードだったかな。ちとせ会館の7階。
1月30日(土)
朝から晩まで労働。途中、女子プロレスの里村芽衣子を皮切りに、豊田真奈美、ライオネス飛鳥、北斗晶、ブル中野、ダンプ松本、ミミ萩原などの動画をYoutubeで探して見ていた。強い選手というのは、まるで一つ一つ道をふさいでいくように相手の技を受けきっていくし、瞬間的に展開を切り替えるのが上手だ。場を支配するとはどういうことなのか、プロレスを見ているとヒントをもらえるような気がする。
1月31日(日)
夕方、ドトールで作業。ここ1,2週間、ドトールの窓際の席が気に入って、何度か座っている。近くのコメダ珈琲は感覚が鈍るようで余計にボーっとしてしまうし、ジョナサンもダメ、ドトールのここがちょうどいい。この「ちょうどいい」という感覚は、おそらく「よりアウトプットが出そう」という感じであって、快適なソファーであるかとか、静かで座席の感覚が適度に広いとか、そういうことではないように思う。むしろ2つ隣りの席の会話がたまに聞こえるくらい雑然としていたり、椅子が固かったり、サンドイッチが美味しすぎない方が、本を読んだり作業したりするのには「ちょうどいい」。
夜、借りておいた『ロミオの青い空』の続きを見る。根が明るいっていうのは、なぜだか不思議に自分自身で満ち足りているということなんだ、という多分どこかで聞いたか言われた言葉がよみがえった。それが上品ってことでもあるし、太陽を生きるってことなのかなと考えてみて、腑に落ちた。逆にいえば、根が暗いっていうのは、誰かに認めてもらわないと、なにか意味のあることをしないと、満たされないということで、それが強引であればあるほど下品に映るのかも知れない。