虫と水に自分を重ねてみる

チェさんの古典勉強会(「おくのほそ道」)、10月27日の記録と省察

十五夜に生まれたとされる芭蕉は、月を見るのが好きだったそうだ。
そんな芭蕉が月にちなんで詠んだ句に次のようなものがある。

「夜ひそかに 虫は月下の 栗を穿つ」

しんとした夜の空気の中、幻想的な月に照らされた栗へと意識の焦点がしぼられ、その栗が小さな虫に食べられる音さえ聞こえてきそうな句だが、「私たちは虫のように栗に閉じ込められている」とチェさんは言っていた。

いのちがありありと、明々白々に感じられる月下にて、閉じ込められた虫は栗をうがつ。ひそかに(孤独に)。夜も(昼も)。

この「穿つ(うがつ)」という言葉は、「窺う(うかがう)」という言葉ともつながっている。「うかがう」とは「問う」の謙譲語であり、それは自分より目上の、あるいはより大きな存在を穿って、さらにそこから何かを出させる動作のことをいう。確かに、人間は古来より神仏にご託宣をうかがい、占いをして結果を求める=自身の存在の在りかや行方を問う、ということに親しんできた。

虫は自力で栗に入る訳ではなく、栗の実が若いうちに卵を産み付けられることで実の内に入り、そこで生が始まる。そして、殻の外へと出ていかななければ、羽化もできず、決して蝶にはなれない。精神分析学者ラカン鏡像段階論によれば、幼児には自分が一個の個体であるという自覚がなく、成長して鏡に映った像を取り入れることによって、はじめて自分が統一体であることに気付いていく。そして、そうした自覚なき生後6ヶ月から18ヶ月の期間は、自分の身体の統一性を“想像的”に先取りすることでなんとか我がものとしている。チェさんは、いわば人間が卵を産み付けられるのがこの期間だと言っていた。

やがて卵はかえり、人は発心(ほっしん)して人を尋ね、問いを重ね、あるいは自分を欲していく。あらゆる欲はこの自分を欲する欲の変じたものに他ならないとも言えるけれど、同時に人は往々にして先取りした想像(先入観や恣意的な思惑)にとらわれ、実を食べて欲を満たすことばかりに気をとられる。そうやって次第に、殻を破り月下の世界に出て、自らを照らすリアルに触れえる可能性さえも忘れてしまう。

正直、ラカンの思想は難解で自分にはよく分からなかったが、チェさんがもう一つの句を挙げてくれたおかげで、次第に言わんとしていることの輪郭がつかめてきた。

「五月雨や 集めて早し 最上川

チェさんはこの句について、「宇宙的なエネルギーの在りようをずばり述べている」と言っていた。この最上川は地理的には、出羽国最大の河川(山形県の面積のじつに75%にあたる)であり日本三大急流の一つだけれど、象徴的にはそうではない。ここでの“川”とは、言葉を通して作り出された意味の集合であり、「成功」や「幸せ」、「一人前」、「勝ち組」といった概念や、それに付随し想像されているイメージの数々(シニフィエ)を指している。一方、川と対比されている五月雨の“雨”は、常にふり続けている一瞬一瞬の現在であり、生成される意味の表れや書くということ(シニフィアン)に通じている。チェさんは「この川をのぞいて、そこにすっかりはまり込んでしまうことをナルシスと言う」という話をしていたけれど、そこで自己愛という言葉を使わないところは流石だと思った。これはつまり、先ほどの想像的先取りの中で夢見ている状態に留まっていることを指しており、「集めて早し」とはそうしている間に、月日がどんどん経過していくことの表現とも取れる。

ただし川というのはよく見ていると日に日にその表情を変える。かさが増していき、時に氾濫することもあれば、どんどん乾渇して干からびてしまうこともある。その様はたとえば呼吸の乱れへ重ねられるように思う。吸いすぎて過呼吸となりパニックを引き起こすこともあれば、息継ぎが追いつかず息が切れて(吐きすぎて)へたれこんでしまうこともあるように(自分の見ている占いのお客さんは後者の方が多いように感じる)。いずれにしろ、一息、一息、自分に合った、あるいは状況に合わせた自然な呼吸の仕方を忘れてしまった結果として、乱れは起きている。ただし乱れきってしまえば、それも一つのきっかけになるかも知れない。こうした川と雨の対比からどんな構図や運動がくみ取れるだろうか。

芭蕉という人は“言われていないもの”を詠む名手でもあったそうなので、何が暗にほのめかされているか?という視点から句を眺めてみると、点としての雨、線としての川を補完するものとして、面としての海に思いあたる。おそらくこの“海”こそ、先の虫の句に描かれた月の光に照らされた世界であり、それは超越的な次元でリアルが開示される何らかの場、時間を超えた世界だろう(キリスト教なら「審判の日」だろうか)。繰り返すが、そんな海を、通常人は直接感じたり見たりすることは決してできない。ただただ、目の前には川が流れていて、ときたまはたと気が付くように、つねに降り続けている雨の存在に思い至るに過ぎない。けれど逆に言えば、川を消し去る最果てとして、あるいは雨の起源であり母胎として間接的に海を感じたり、思いを馳せることは可能だろう。血液が心臓を介して初めて全身を循環することができるように、海から始まり海へ帰ることを意識して初めて、水としての意識はすっかり循環することができる(仏教では「円成」と書いて、円満に仏の心を成就するという意味で使うそうだ。これもmakingwhole=癒しの一つのビジョンだろう)。

そうしてみると、意識をいかに捕らわれがちな川モードから軽やかな雨モードへと転換していくことができるか?というのが与えられた生を全うしていく上での一つの問題だということになる。そしてふりつづける雨のモーションを止め、ズームしてよくよく観察してみると、雨というのも勝手に降っている訳ではなくて、空気中のほこりや塵を介して、「しずく」が育って初めて雨となって地上に下りてくることができる。このちり芥の類、占星術にひきつけるならば、月より下のこの世のすべてを構成する四大元素(エレメント)としても考えられるだろう。

また、「ふる」という言葉も物理的な動きを表す「降る」であると同時に、場所の通過や時間の経過を指す「経る」でもあり、あるいはその両者から自由となっている、過去から残され未来に届けられる「古る」にも通じている。してみると、現に生き「ふりつづけている」しずくというのは、天と地、あちらとこちら、過去と未来を縦横に結びつけている紐(ひも)のようなものなのかも知れない。

ここまで考えて、「創造とは作品の目に見える表情の陰で作用する生成のことである。」というクレーの言葉をなんとなく思い出した。