シンネンを占う

年末まで、忘れっぽい自分のために、整理もかねて今後について思うことをつらつらと書いていこうと思う。

ゴットファーザー』にみる土星冥王星

12月13日に朝日カルチャーセンターで「2015年を占う」という講座をやらせてもらってから、無性に『ゴッドファーザー』が見たくなって、先日やっとシリーズ3作すべてを見返すことができた。ビトーからマイケルへ、そしてマイケルからヴィンセントへ、コルレオーネファミリーの時系列を行きつ戻りつする映像を追いながら、マイケルの、そして一つのファミリーの崩壊と時代の移り変わり、そのかなしみの歴史を見届けていくうち、胸中にひとつの感慨が生じてきた。それは映画の中の彼らから立ち昇ってくるかなしみが、今の時代が醸している雰囲気にそのまま通じており、とくにここ2年間にわたる土星冥王星の交錯をじつに鮮やかに映し出してくれている、という思いだ。

いよいよ2014年12月24日に土星蠍座から射手座へ移り、2012年10月ぶりにイングレス(星座移行)を迎える。約2年間にわたる蠍座土星期は、言わば「パンドラの箱のそばで腹の探りあいをしている」ような心象をもたらし、それは人の心の奥にある思いや、深みに沈んでる感情を抉り出してきた。そして次の射手座土星期は、さんざん露わにされた一群の本音や感情を前に呆然としつつ、「自分が歩んできた道のこれまでとこれから、その両者を照らし出してくれる光は果たしてあるのだろうか?」という疑念へと焦点が移っていく。しかしそうした新たな局面(そして来たる2015年)を見ていく前に、数年前より山羊座にある冥王星蠍座土星とのミューチャルレセプション(互いの支配星の交換)による、身動きの取れない睨み合いと絶え間ない浸食の終焉について、まずはきちんと見極めておかなければならないだろう。これまでと何が変わって、何が変わらないのか。何が消え、何が今後に残っていくのかを。

例えばアラン・レオは蠍座土星について「力への愛」と特徴づけ、この配置は人の心の中で、敵対するものへの嫌悪の情に焦点を当て、次第にその情に縛りつけられていく傾向性を意味する、と述べている。敵か味方か、相手は本当に信用できるのか、そうした二分法に追いつめられるとき、人は絆の僅かな綻びにも鋭く反応するようになり、特に近しい者から裏切られることには深い怒りを覚え、苛烈な報復も辞さなくなるものだ。

レオは、人生において最も危険なものは二つ、「プライドと嫉妬」であり、よき生を送るにはそれらに集中することをなるべく避けなければならないとも述べているが、人がその二つの情念を完全に断ち切ることはほとんど不可能だろう。女であれ男であれ、人は多少なりと自己への誇大感を抱く一方で、人を羨む気持ちを持つものだし、それは他人と自分が異なる個性をもって同じ世に生きざるを得ないという前提で生きている限り、無限に生成され続ける情念と言える(ただし男と女では嫉妬と言ってもその質は異なるのではないか。個人的には男の嫉妬の方が、より「才能」に対する嫉妬の意味あいが強いように感じる)。

それゆえ、力への愛は人を死へと追いやる。『ゴットファーザー』も、あまりに無残に、登場人物が次々と死んでいく映画だった。最初はほのかな嫉妬心や、自己愛のうずきに過ぎなかったものが、資本主義原理で回る時代の波やそこでたき付けられた欲望と結びつけられていくことによって、膨れ上がっては暴発する、そして二度と元には戻れない、そんな光景が繰り返し、執拗に描かれている。それでも、2000年以上にわたりシチリア島で醸成された「虐げられたものの横のつながり」がまだかろうじて機能していた一代目のビトーの代においては、死とはまず「不当に搾取する傲慢な権力者」=敵の死を意味していた。そこでは「殺し」は「社会が押し付けてくる縦割りの秩序(という欺瞞)」に左右されない隣人(仲間や家族)との横の絆を深めるため、という名目のもとで正当化され、弱者の結束と連帯の上に成立する濃密な関係空間は「お互いが掟を守ること」で維持されていた。ただ、同じ仲間や家族といっても、関係空間の規模が大きくなって(関係性の濃密さが薄められ密度にばらつきが出て)くると、どうしても持てる者と持たざる者の差が出てきてしまうし、「同じ(弱者)であるはずなのに」という気持ちが働く分だけ、それは余計に「プライドと嫉妬心」を暗く煽ってしまう。結果として、そこから決定的な<感情の劣化>が起きてくる。

ゴットファーザー』という映画も、基本的には、二代目のマイケルへと代が移り、「隣人の掟」が互いを尊重しあう信頼関係によってではなく、功利的な損得勘定や経済原理によって支配され始めることで、それまで関係空間の濃密さを維持していた掟そのものが劣化し、破綻していく様を描いている映画だ。蠍座には現象の背後に必ずその本質を担う裏の実体を見出そうとする性質があるが、それはファミリーを束ねるドンに必須の資質であると同時に、本来他の何よりも仲間や家族とのつながりを必要とし、そこに救いを求める心性から生じてくる傾向なのだとも言える(シチリアで育ったビトーは9歳で家族のすべてを殺され、逃げるように移り住んだ新天地アメリカで新たな家族を作った)。だからこそ、救いを求めて絆をたぐり寄せた先に、自分とは異質なカネの匂いや怜悧な計算を感じた心というのは、おのれ(感情)を歪ませ、次第に力への愛を権力への狂気へと変貌させてしまう。

そうして、そもそも絆の確認であり、弱者を救う紐帯の役割も果たしていた力への愛(蠍座土星)は、本来その敵であったはずの「不当に搾取する、傲慢な権力者(山羊座冥王星)」へとなりかわり、ついに最愛の家族からも忌み恐れられる存在となってしまうという悲劇を生んだ。それは家族や仲間、その紐帯を守るため、合法的なビジネスへの転換というマフィアとしての在り方や業界構造そのものの在り方を変えんとする「毒薬(冥王星)」を飲み込んだものが、信用のハードルを上げるだけでなく信用できないものは容赦なく切り捨てよ、という「抗えない要求」を受け入れた結果迎えた必然だったとも言える。しかしそれでも、このもっとも力強く仲間や家族を守ろうとした者が、もっとも仲間や家族から忌み恐れられる存在となるという物語は、明らかに、人生における苦悩の役割について考えさせられるものだろう。禅宗の開祖とされる達磨は「人が業(カルマ)をつくるのだ。業が人をつくるのではない。」と書き残したが、では人は誰かを責めてはいけないのか。許すことだけが正しい選択肢なのか。振りあげたこぶしを誰かに振り下ろすのは罪であり、罰を受けなければいけないのか。責めざるを得なかった瞬間や、怒りで我を忘れそうになった時。多くの人はそうしたふとしたタイミング、けれど感情の劣化へ一気に傾いていく分水嶺でもある時というものを、そうであると気付かぬうちに夢中で通過していき、その事実に後になってから気がついていく。ただ、その時大抵の人はこうつぶやくだろう。「他にどうすればよかったと言うのか」(マイケルにとってのそうした分水嶺は、おそらく弱く気優しい次兄・フレドの裏切りに対する報復を決行したそのときであり、それが最晩年まで決して消えることのない彼の苦悩を決定的なものにした)。

ゴットファーザー』という長い長い物語も、最終的には「なぜ私にこんなことが起こっているのか?」「どうしてこんなことになってしまったのか?」「いつになったらここから抜けだせるのか?」「もっと別の生き方、違った結末があったのでは……」こうした問いに対して意味のある答えを求める“一切の”試みの挫折へと収斂されていくように思う。これも、光の届かない意識の深層に隠された意志を司り、まるでブラックホールのようにすべての光を吸い込んでいく冥王星の作用なのかも知れない。

「反応」と「応答」の違い

では近年の日本に舞台を戻して考えてみたとき、突きつけられた「抗えない要求」とは何だろうか?あるいはそれと交錯するように、この2年間の蠍座土星期で顕著に表れてきた心の歪みや感情の劣化はあるだろうか?後者から考えてみると、「ヘイトスピーチ」は(言葉自体は以前から存在していたものの)、日本では2012年の日韓関係の悪化に伴い、この2年間で一気に顕在化してきた感情の劣化をしめす象徴的現象と言えるだろう。

とくに歴史認識問題をめぐって、日本は韓国・中国を中心に(アメリカもだが)歴史修正主義を指摘され、そうした状況に対する「反応(リアクション)」として、ヘイトスピーチが展開されてきているように思う。これは自国の近現代史を熟知した上での対応というより、しっかりと納得していない状態で、断続的に強い糾弾や非難を浴び、謝罪を要求され続けたために起きた半ば生理的反応であり、それはやはり「上っ面の反省」に終始してきた、戦後日本人の歴史の忘却と無知に起因しているように思える。この点についてたとえば中島岳志氏は「アジア主義は確かに帝国主義化しました。「王道」は「覇道」へとスライドし、「連帯」は「侵略」へと転化しました。」と自著(『アジア主義』p454)の中で述べているが、これはまさにかつて近代日本が歩んだ土星蠍座山羊座冥王星の交錯の歩みであり、そのことについて日本人はちょうど晩年のマイケルのように向き合うべき時が来ているのかも知れない。だとすれば、まず考えるべきは現に進行しているヘイトスピーチという「逆ギレ的(中島)」なリアクションでいいのか?ということだ。

ちょうど今年2014年の春分図は、国民の態度や世論を表すASCに冥王星が乗っており、以前ここでもこの冥王星は怨みの発動や、劣等感や屈辱感の補償として表れるのではないか、という趣旨の記事を書いた(→)。そこでは、ロバート・ハンドの「自分自身に触れろ!」という言葉に依拠しつつ、そうした急激な<感情の劣化>を鎮めるには「意識の上ではすっかり無かったことになっている過去の鬱憤や忘れている記憶に光を当て、そこにある受け入れがたい“邪悪(ねじ曲がり)”や“弱さ”と対面」することが大切だろうという指摘をするに留まったが、排外主義的なデモや差別発言がおおっぴらに繰り広げられ、反知性主義の時代に突入したかのような昨今の潮流を肌で感じるだに、この感情の劣化という事態を深刻に受け取らざるを得ない。連帯が侵略に転化せず、王道が覇道へとスライドしたのはなぜだったのか、そしてかつての歩みを踏まえてこれからどんなふうに歩んでいくべきなのか、こうした問いは、土星蠍座から射手座へ移ってもまだ当分は残されたままだろう。

「業(カルマ)」という言葉はもともと“行為”を意味するが、仏教の考え方によれば行為には2種類あるように思える。たとえば誰かに侮辱されたとき、過去を思い出しつつ反応し、怒り出す。これは先のヘイトスピーチのような「反応(リアクション)」であり、どうやらこの反応がカルマと呼ばれる行動のようだ。つまり、行為するものを束縛する鎖であり、自らを状況の奴隷や犠牲者にしてしまう類の行為。それと全面的に異なっているのが「応答(レスポンス)」だ。

和尚の『ボーディダルマ』から引用しよう、「彼はなんらかの発言をしている……賞賛なのか非難なのか、それは現瞬間の問題ではない。あなたは即座に反応せず、まず相手に耳を傾ける。あなたは自分の意識が、なんであれ相手の言っていること、やっていることを鏡のように映し出すのを許す。この鏡のような、即座の、現瞬間の意識、過去の経験からやって来たものではない意識から、なんらかの応答がやってくる。」

つまり応答(レスポンス)とは、相手に評価を下すのでも、過去の鬱憤を晴らすのでも、それらに自分を束縛させるのでもない行為のことで、おそらくは、心の動きがきわめてシンプルなものになっていく中で(あるいはそうした習慣の中で)、一瞬の閃光として現れてくるようなものなのだろう。「鏡のように映し出す」とあるが、鏡の反射は、そこに光がなければ不可能だ。相手の中に、かすかでも光を見出すということ、あるいは見出せなければ何も映し出さないということ。そのための十分な静謐や余白を用意すること。そしてそんな「応答」を、他の誰かだけでなく自分自身に対してもしていくこと。自らの内の「邪悪」や「弱さ」と対していくには、このような応答的振る舞いの所作が必要なのだと思う。

射手座土星について、リズ・グリーンは『サターン』の中で「自らの辛い体験を通じて、他者による人生や正義についての解釈を信じているだけでは不十分であることに気づく」のだと書いているが、それは自らの行為や、これまでの生き方を肯定している信念の否定を意味すると同時に、自分が必要とする光(信念)は自分で発見しなければならないということを意味する。自らの掲げる正義や価値に何らかの疑念が差し向けられ、それらの否定へ向かい始めたとき、その先の未来の違いをつくり出すのは、例えばそこで「反応」に終始するのか、一度でも「応答」を差し挟む契機を持てるかだろう。