サビアンの五芒星読み

今さら自分の今年の抱負など書き連ねても仕方ないので、その代わりにサビアンの応用的な読み方についてここに書いていきたい。※長いのでお暇な時にお読みください

 

 出生図の惑星を五芒星に展開する

出生図のサビアンシンボルを立体的に読んでいく手法として、20世紀の占星術家ディーン・ルディアは「クロス(十字形)」と「スター(五芒星)」の2つを特に重視していましたが、今回はあまり一般的に使われることのない後者を、さしあたり自分の出生図の太陽に適用し、検証してみたいと思います。

 

円を4つに分割する「クロス」は、地平線と子午線のように、私たちの意識を地上ないし物質的次元に文字通り磔(はりつけ)にするものであり、象徴的には空間的な展開やその安定性、変化への抵抗を表します。つまり、何が(what)・なぜ(why)・どこへ(whereto)・どのように(how)起こるのか、といった必然的に関与してきやすい現実の構成要素がそこに暗示されていくと考えていた訳です(このあたりは松村潔さんも『決定版サビア占星術』などの著書の記述に取り入れられていました)。

 

一方で、ルディアはこの「4」のバイブレーションを「5」のそれへと引き上げていくというアイデアを持っていました。彼はそれを錬金術における「大いなる業(Magnum opus)」になぞらえたりもしていて、円を5つに分割する「スター」で表わされた結びつきこそが、その人間がいかに意識変容を進めていくか、すなわち本人の‟創造性”の発揮プロセスを表わすものと考えていたのです。

 

この‟創造性”という言葉は、現代社会で最も多用されがちで、陳腐化してしまっている言葉の一つであり、時代の節目であり、社会の不確定性が増している2020年現在においては、ますます一概に「こういうことだ」と言い切ることが難しくなっているのではないでしょうか。その意味で、この「スター(五芒星)」を個人に適用していく見方というのは、とても検証が難しい実験をしているのだとも言えますし、だからこそやる価値があるのだと思います。

 

具体的には、出生図において「自分らしい人生を積極的に生きてみようとする創造的な意志」を表わす太陽を起点に、円を5つに分割した度数である72度を順に足していきます。

 

自分の場合は、出生図の太陽が獅子座6度55分で数え度数では7度なので、そこからホロスコープ内に五芒星を描いていくと、5つの頂点はそれぞれ次のようになります。

 

①獅子座7度「夜空で輝く星座たち(The constellations in the sky)」

②天秤座19度「潜伏している泥棒一味(A gang of robbers in hiding.)」

山羊座1度「承認を求めるインディアンの酋長(An Indian chief demanding recognition)」

魚座13度「博物館に展示されている古代の剣(An ancient sword,used in many battles,is displayed in a museum)」

⑤牡牛座25度「手入れの行き届いた広大な公園(A large well-kept public park)」

 

サビアンシンボルの解釈とコメント

以下、黒字でサビアンの解釈を、青字で個人的なコメントを書いてます。解釈だけ追いたい場合は青字はすっ飛ばしてください。

 

①獅子座7度「夜空で輝く星座たち(The constellations in the sky)」

ここでは前度数の獅子座6度「古風な老婦人のヒッピーの少女」で示された絶えず移り変わっていく世の中の基準をのりこえ、相対化していくために、長い長い世代的な連続を耐え抜いてきた普遍的な基準やパターンを見出していくことがテーマとなっています。

 

旧約聖書ヨブ記』において、神がヨブに向かって「あなたはプレアデスの鎖を結ぶことができるか。オリオンの綱を解くことができるか」と尋ねたように、この世には人間の力ではどうすることもできない何ものかが現に存在しているということを痛切に認識し、そうした永遠性を感じさせるものに生き方の照準を合わせていくことで、細かい価値観の変遷に振り回されなくなって、根本的なところで安定感を得ていこうとしているのです。

 

→「年齢域」という考え方では、太陽はだいたい二十代半ばから三十代半ばにかけて発露していくとされていくが、ちょうどリーマンショックが起こったのを機に、ベンチャー企業の営業職から占星術家に転身したのが25歳の時だった。

ただ、占い師を名乗って信用されるにはまだまだ人生経験が足りなさ過ぎたのと、占い師という職業自体の怪しさも相まってやはり周囲の目は厳しく、占い師を始めてしばらくは、自分もどこか意地になって突っ張っていたところがあったように思うし、今もどこかにそういう面はあるんじゃないだろうか。

 

②天秤座19度「潜伏している盗賊団一味(A gang of robbers in hiding.)」

星座から盗賊団へ。①では「地上の世界と永遠性の世界の対比」が強調され、思いきり自分を後者の側に置いていくことで、ある意味であまりに純粋になりすぎ、社会性に染まらない存在になっていた訳ですが、②ではむしろ社会的な役割にどっぷりと染まっていこうとします。

 

ここでの「盗賊団」とは義賊的な活動をしている少数派集団を指していますが、それはすなわち、世の中の基準からは外れていたり、行き過ぎていたりする傍流的な存在や、ほとんど日の目を見ていないものの中に非常に大きな価値を見出し、大いに加担していくということ。しかも、それらを性急に担ぎ上げるのではなく、新しい先進的な‟潮流”となるまで仲間を集め、じっくり育て上げるべく「潜伏」している訳です。

 

ただ、ここでは社会的な役割といっても、従来の社会的な風潮やメジャーな体制に対して反発心を抱えすぎており、歴史的に言えば‟共産主義”の理想の暗い影がどうしてもちらつきます。つまり、「どうしたらこうした異議申し立てが妥当で有効なものとなるのか?」ということが大事な問いになってくるのです。

 

→自分の場合、占い師の活動を個人としてではなく、まず会社員時代に参加した「not for sale.」という男性占い師ユニットのメンバーとして始めた。二つ年上のリーダーJunoの着想で「男性占い師が少ない」「そもそも占いのイメージがダサくて怪しい」という点に目をつけ、占い師とクリエイターが組んで活動することで占いをもっとクリエイティブにしていこうというコンセプトのユニットで、プロデュースもマネジメントも完全にセルフでやっていた(主にJunoが)。 

うまくいったこともあるけど、なかなか厳しい面もあり、そんな中で新たに仲間を増やそうとしたり、あるいは日本ではなく海外で実績を積んでみたり、いろいろ試していったし、この度数のシンボルはどこかその時のことを色々と思い出させる。

 また、鏡リュウジさんに雑誌の対談にユニットで呼んでもらったのを機に交流が始まって、なにかと取り立ててもらったり、仕事をいただくきかっかけを作ってもらったりしたが、そういった「ピックアップされたり、したりする」経験もまたこの度数らしいと言えるかも知れない。

 

山羊座1度「承認を求めるインディアンの酋長(An Indian chief demanding recognition)」

隠れていた盗賊の一人が表舞台へ。ただしそこは実力がなければたちまち引きずり落とされてしまう大変緊張に満ちた場であり、「酋長」となるには仲間たちに自分の力を認めさせなければなりません。

 

ここではまだ山羊座本来の集団原理にまだ完全に個人が埋没しておらず、むしろ自分に何ができるのかをはっきり主張していかねばならないのです。しかも1度ですから、周りが引くぐらい、どんどん積極的に前に出ていく必要がある。ジョーンズはこの度数に「Inflexibility」というキーワードを与えましたが、これはどのような困難にあっても屈しないで活動し続ける‟不撓不屈さ”を意味します。そうして初めて、日が一番短く、闇が深くなる冬至という節目を乗り越え、地上にふたたび光を取り戻していくことができるのでしょう。

 

「酋長」は指導者としては荒削りであり、率いている集団の規模もそこまで大きなものではないはず。むろん、行使できる権力といっても、大国の指導者のそれと比べればたかが知れていますし、世界の歴史に残るような実績は残せないかも知れません。けれど、「酋長」にはその奇妙さと引き換えに無敵の個性が備わっており、まだ十分に洗練されていない代わりに深い独創性を湛えているのです。

 

→正直、このフェイズは消化しきれた実感はまったくない。だけど、短い時間ながら30歳前後くらいから主に経営者向けのセミナーでもう6年以上定期的に占星術に絡めた講演をしてきたことや、同じ頃から講座の講師の仕事などが増えて、ユニット活動から個人活動へ主体が移っていったことなどは、この度数のサビアンに当てはめて考えることはできそう。

また②が「前衛的だけれど、命は短い」のだとすれば、③は大地の霊と一緒にやっている人間の太さというか、「下手くそだけども、古代的なものの強さ」、と置き換えてもいいかも知れない。そういう意味では、俳句や和歌などの日本の古典への関心や、それらと占いの再接続に向けた取り組みはここにあたるかな。ただ、そのためにはもっと主張の声を大きくしていくための努力や積極的な取り組みがまだまだ足りていない。

 

魚座13度「博物館に展示されている古代の剣(An ancient sword,used in many battles,is displayed in a museum)」

酋長から剣へ。「古代の剣」とは、歴史を通じて多くの人に認められてきた「集合」の力が象徴化されたものですが、この④は①との関連においてより理解されやすいでしょう。

 

「星座」はそれ自体は永遠不変のパターンのように見えますし、①では現代まで伝わっている、言わば星座イメージの上澄みだけを取り上げて、それを自らの存在の支えとするために利用しようとした訳です。しかし、実際には星座一つとっても、幾つもの時代を経ていく中で、さまざまな民族や地域の人々からさまざまに異なるイメージを投影されてきた歴史があり、④ではそれらが博物館の灯りのもとで改めて取り出され、人々の記憶の深層にあるわだかまりや怨念が鎮められていかねばならないのです。

 

つまり、①では自分の外に確かな基準を見出すことで個人的な安定感が確保され、②でそれを一つの新しい潮流となるまで我慢して育て、③でついにそれを社会的に打ち出して、なんとか周囲にその社会的位置づけを認めさせるまでに至った訳ですが、④ではむしろ、そうした分かりやすい図式を成立させていく背後で犠牲になった、一般的には忘れられた記憶や歴史のカルマを解消していく霊的な働きの方へ自己同一化しており、それらを自分が代表していこうとしているのだと言えるかも知れません。

 

→ここは自分にとって今後の最大の‟課題”が暗示されているように感じるし、④というのはある程度どの人においてもそうなのではないかと思う。というのも、この「スター(五芒星)」のプロセスはまだ統合されていないものを統合していくプロセスであり、アスペクトにおいて死角や盲点との直面を意味するスクエアにあたる4番目の段階が特にそれを担いやすいから。

個人化していく精神というのは、必ずどこかで生物としての集合的衝動や無意識的な感情領域に立ち戻り、エゴに深い基盤を与えて行かねばならないが、この度数では伝統の再生を試みていく際に、埋もれた歴史やイメージ、解釈を改めて掬い取っていった上で、それらを結び付けて新たなリアリティーを再構築していくことがテーマとなっていく。

そこには例えば、ギリシャ神話のみで象られがちな12星座のイメージをメソポタミア神話やインド神話北欧神話や中国神話、日本神話や日本の季語や歌などから縦横に拾い上げ、従来の意味や定義を拡張し、より豊かなものとして12星座を語りなおしていくことなども挙げられるかもしれない。こうして書いてみても、それは難しいというより一人では不可能という印象。ただ、これは何らかの形でやっていかなければ。

 

⑤牡牛座25度「手入れの行き届いた広大な公園(A large well-kept public park)」

最後は公園へ。①では自分のものではない公共の資産(星座)を、あくまで自分のために利用しましたが、ここでは自分自身(土地や、そこに根づいた文化)を使って、自分のためではない目的のために奉仕しています。

 

ルディアはこの度数を「集合的な楽しみ」のシンボルであると考えました。「公園」を訪れた人々は、自分たちが広く享受することのできる文化の産物を通じて、「大きく、統合された、平和な全体性に自分は“所属している”のだ」という気持ちが高められるのだと述べていますが、ここにきてやっと「文化的洗練」というテーマが出てきた訳です。

 

これは②の「盗賊団」ではまだ潜在的な可能性として存在した文化的価値が、③の「酋長」の奮闘や、④の「博物館」での慰霊を経て、ついに⑤で一般公開を迎えるレベルに引き上げられ、正式に誰もが使い得る公的資産となったということ。そして、①で地上への反発から天の星座に足場を置いたのが、ここ⑤にきてまた天から地上へと戻ってきたということでもあります。それも、今度は虚しくはかない夢の世界としてではなく、豊かで確固とした現実の世界として。

 

なぜそれが可能になったのかというと、それは普通なら手放さないような所有物を完全に‟公(common)”のものにしていくことができたから。「私的所有」という富の一形態から離れていくことで、やはりそれにアクセスできる人々に豊かな生を約束してくれる価値をつくり出すことに成功しているのであり、そこれこそが、獅子座7度始まりの‟創造性”のひとつの到達点なのでしょう。

 

→ここはアメリカの政治哲学者ハートが提唱している、新しい時代のコミュニズムの出発点としての「コモン」という考え方にも通じる度数。社会的な富へのアクセスは開放されているが、その代わり、その富を管理するための民主的なシステムが必要であり、その管理の方法は自分たちで編み出していかなければならない(ex.富士山)。

個人的には、将来的な目標として、占星術の観点からサビアンシンボルや12星座とすり合わせた季語をもとに歳時記を編んでみたいということを考えていて、自分にとっての「公園」はそれかなと。もちろんそれには「公共財」となるまで価値を練り上げ洗練させていくことが不可欠。細く長く淡々と続けていければいいな。