遠離一切顛倒夢想

もともと、このブログは「日記」用につくったのだった。
今後は時たまでも、日記(日常に入り込んだ言葉)を書きとめておこう。

久しぶりに、実家で本棚や昔の資料の掘り起こし&整理をした。

それもこれも、昨日渋谷のジュンク堂若松英輔さんの「ユング井筒俊彦」という話を聞いたせいだ。
池田晶子を読んでクスリも適わないほどにぶっ飛んでいた高校3年生の自分や、
ユリイカに載っていた高橋巌さんへの鏡さんのインタビューを読んで違和を感じていた高校1年生の自分が
浮遊霊のようにちらついて離れない。

どうも、それらの自分といまの自分をつなげる言葉を見つけないと、消えてくれないようだ。
消えるまで何かしら昔の言葉を挙げていこう。

2006年12月29日の日記から。

いまわたしが他ならぬこのわたしであるという事態
を支える何らかの実在を→<魂>とする

が、一般的に魂ときくと、われわれは瞬間的に「あるか/ないか」という問いの地平へと飛ばれてしまう

これには2つの理由が考えられる
1)「魂=内的で能動的なモノ的実体」という形而上的な判断が予めなされているため
2)「魂の存在=死後の生の存在」であり、「魂=死者の魂」の同一視⇔死の隠蔽工作

飛ばされそうになるのに耐え、見失わないようにしないといけない

たとえ頭が
「外側からみた(目に見える)身体性の喪失」という意味での死について語ったとしても、
それは
「わたしが存在しなくなる」=「わたしがわたしである」という事態の崩壊
とは何ら関係がない

いまは
「個としての私」が、つかまえようとすると無限に後退していく私でない「わたし」と
同一性ないし関係性を持つということがどういうことなのか、その営みを包括的に追っていきたい


感想

般若心経の「遠離一切顛倒夢想」という言葉を思い出した。
人は普段、ひっくりかえった思考の世界(顛倒夢想)を見ているから、そこから離れようぜ。
という意味だったと思う。

上の日記を書いたときの自分はひどく腹が立っていたか、失恋でもしたか、
いい占いができてノッていたかのいずれかだろう。ただそういうことは書いてなかった。