『色彩という通路をとおって』(志村ふくみ)

今週に入って、ぽちぽちとユリイカのシュタイナー特集号(2000年5月号)を読み返している。

特集ページの冒頭に志村ふくみの『色彩という通路をとおって』という見開き2頁ばかりの短い文章が載っているのだけれど、
それで改めて、彼女の文章の素晴らしさについて感じ入ってしまった。

「緑は生命の死せる像である」
この言葉は何か矛盾にみち、難解である。しかし私がずっと謎のようにつぶやいていたこの言葉とどこか符合するような気がしてならない。
「緑は生と死のあわいに明滅する色である」
当時私がこんなことをつぶやいても誰も耳を貸してくれなかった。前にあらわれる緑が現世の空気に触れた瞬間に消えてゆくのを証明する手だてをもたなかった。「目の錯覚」「単なる酸化現象」に過ぎないと。



春先に野に萌えいづる蓬のみずみずしい緑の葉汁を布や糸に染めても数分で消えてゆく、藍甕の中に入れた糸をひき上げた瞬間の、目もさめる緑(エメラルドグリーン)は空気に触れた瞬間に消えてゆく。緑はどこへゆく、この地上に溢れる緑とは何?なぜ染まらないの。



かつて、「ゲーテの色彩論の真実を世の中に証明してみせたい。」といったシュタイナーの念願が常に胸の裡にある。植物から抽出される色彩の一端からそれが見えてこないかと。闇にもっとも近い青と、光にもっとも近い黄色の、ゲーテの発見した際(きわ)の色から誕生する過程を目の前に存在する藍甕の中で証明することはできないかと。

感想

シュタイナーに関しては、「アストラル体」とか「エーテル体」と言われてしまうと、まったく他人事のようでリアリティーを感じられないが、時代的なフィルターが強くかかっているという意味で、それをうまく外していければやはり興味深く感じる。

日本の近代史を通してユングやシュタイナーを理解しなおしていく、ということもいずれやっていきたい。