「占いはあなたを癒せるか」(宮台真司×鏡リュウジ対談)より抜粋

『アニマの香り』に収められている両氏の対談が行われたのは、今から12年前の2000年。
現代日本において、あえて占いに取り組んだり利用したり享受したりすることになんか積極的な意味あんの?」
というもんだいを考えるにあたり、今読み返してみても非常に示唆に富んでいたので、以下、気になった箇所を抜粋させて頂きました。

宮台
占いという営みが出てくるのは、その程度(※コミュニケーション不可能な、しかし端的に存在するものがあるという感じ方が出てくる)まで社会が複雑になり、私たちがコミュニケーションできないものが存在して、そのコミュニケーションできないものが、私たちのさまざまな営みの前提になるはずだ、影響を与えてくるはずだ、という考え方が生まれたときに出てくるものなんです。

そうすると、実は占いという営みには、どんな種類の占いをやるときにも、いまいったような世界観、つまり、ぼくたちは全てのものとはコミュニケーションできず、一方的にぼくたちにメッセージや影響が訪れたりするという類の何ものかがある、と感じる世界観に、多分ポイントがあるのではないかと思います。


そうなると、易とかいろいろな占いがある中で、占星術は特殊だなという気がするんです。(中略)ヘレニズム期に完成した占星術は、まさに宮台先生がおっしゃっている通りで、天上の秩序がこの世で行われますようにという、一方的な影響が向うからあるというストア派的なものです。

ところが、占星術の発生そのもの、もう少し古いテクストを見てみると、やはり星としゃべってしまっているんです。祈願なのか、何なのかよくわからないような問いかけなんですよ。多分、惑星の向こうとか、天体の秩序が、人間にとって規則性をもったものだということがはっきりわかってきてからの占星術と、それ以前の、もう少しアニミズム的なというか、星の神々と語らってしまうような占星術があって、占星術は一枚岩ではなくて、そのふたつの態度みたいなものが、入れ替わり立ち替わり出てきて、パッチワーク状になっているという感じが、ここのところ非常にしているんです。

宮台
西洋的な文化を生きている方だと、いま鏡さんがおっしゃった二つの側面を、ちゃんと分けて生きてらっしゃると思うんです。例えば、どちらか一方にだけ加担するという形で生きている人が多いと思うんだけど、日本人は占い(一方向性)にも行くし、お祈り(双方向性)にも行くので、どっちなんだよという問題がある。お祈りが叶うのだったら、占いは必要ないじゃないということがあるわけで、そこはもともとぼくたちが一貫していないというか、あまりそういったことを突きつめて考えたことがないんですね。


そういう見方をしてみると、すごく面白いですね。西洋的な文化を生きている人は、確かにご指摘の二つの側面を分けて考えているなと思った。占星術の集まりで海外に行ったときに気付いたことなんですが、私たちは魔術もおまじないも占いも、オカルトというふうに一つにくくるじゃないですか。でも海外では、占星術をやっている人の中に、魔術をやっている人はあまり来ない。そのかわりタロットをやっている人のところに、魔術をやっている人がいっぱい来るんです。
(p15-16)

宮台
社会の外に世界があるということを、どうとらえればいいのかということについては、全然決着がつかないどころか、科学的に考えると、ますます混迷していくところがあるんです。
(中略)
いわゆる宗教というものが、どの社会にも例外なく存在するのは、私たちの生活の世界が規定されていることと、世界が根源的に未規定であるということの間を、なんとかして関係づけるための枠組みだ、というふうに社会システム理論では考えているからです。


よくわかります。意味と秩序を支えるフレーム。占星術では木星土星です。
(p24-25)

宮台
日本、アメリカの別を問わず、抗いようもなく訪れてしまうもの、あるいは、不意に社会に闖入する世界の広がりが、ぼくたちの感受性において、特に重要になってきている。恐らく、ぼくたちの感受性が、いま開かれつつあるんですよ。それはぼくたちがオカルト的になっているという意味ではない。そういう感受性に、全く論理的にある種の正当性があることを、社会システム理論は示せるわけです。ぼくたちは実は社会の自明性の内部で、閉じて完結することはできません。社会の外には広大な世界が広がっていて、社会は規定されたものなのに、世界は名状しがたいもので、そうした世界が、物というかたちをとってであれ感情というかたちをとってであれ、ぼくたちをどうしようものなく訪れてしまうことは、事実です。

にも関わらず、私たちの多くは自分で社会をよく認識して、ちゃんと計画を立てれば、一歩一歩進んでいけて、みんなからも認めてもらえる、というように考えていて、それを人生の幸せだと考えるじゃないですか。それを、コントーラビリティへの信頼と言えるかも知れません。自分で自分をきっちり制御して、自己実現に向かうことが、ぼくたちの人生の目標であるべきだ。だから、ちゃんと目標をもって、そのために日々努力して、自分は目標に向かって努力したかどうかを自分で検証するというような。こうしたアメリカ的な人生哲学の、ある種のばかばかしさというものに、当たり前ではあるのだけれど、気付き始めていると思うんです。

そういう時期であるだけに、鏡さんのお書きになっていらっしゃることは、むしろ占い的なものに対して微妙な距離のとり方をしているがゆえに、非常にコアな部分にヒットしているんじゃないかと思うんです。
(p28-29)


ぼくには、一般的の方に対してと、占い業界のようなところにいる人たちに対して、同時にメッセージを出していきたいというところがあるんです。このあたりを両方やっているから、誤解されやすい。占い師やオカルティストがいかに科学的なことか(笑)。いまのお話ではないけれど、世界を説明し尽くせると思っているんです。

それから、そういうグランドセオリーを手にしたいという野心に突き動かされて、占いをやっている人が多いものですから、占いが当たるということには再現性があると、どこかで考え始める。そうすると、「統計をとって占いを証明しよう」とか、「君の占いが当たらないのは本物のセオリーを知らないからだ」とか、「十七世紀ごろのテクストを見れば当たるんですよ」という話になっていってしまうわけです。彼らの方が、一般の人たち思っているよりもずっと科学的というか、合理的な思考をしようとしています。ぼくは結構いいかげんなので、そういう人たちにはすごく嫌われてしまい、「鏡は占いを全然信じていないだろう」と起こられる(笑)。そうすると、「信じなければいけないのかな」と考えさせられる。

逆に、それとはまったく別のことも言えます。先程の三角関係の問題にしてもそうですが、プラクティカルに占いを使うという場面においては、すでに世界、説明不可能なもの、不条理なものが入ってきているわけです。それに対して、不完全なかたちではあるにしても、「思い当たる」ということで、それにコンテクストを与えてあげることが、占いの場合はできる。こうだよ、と強気で言い切る。たぶん、ぼくはどういう対象の方に語りかけるかによって、メッセージを変えているという気がしますね。

宮台
鏡さんの本を読ませていただくと、共通して「不遜さを改める」というトーンがありますね。これは、今まさに鏡さんがおっしゃっていたように、科学主義者に対しても、占い主義者に対しても、両方に全く同じように適用することのできるメッセージだと思うんです。

先程話しましたが、科学的な思考を徹底的に推し進めることで、科学的説明によっては世界は覆いつくせないことが証明されてしまうのと同じように、占いなら占いの歴史、あるいは占いの使われ方、占いに関わるメンタリティをたどっていけば、占いの伝統には、むしろ占い万能主義ではない考え方、私たちの人知を超えたものへの「訪れ」に開かれた感受性がある。占いはそれ自体が人知ですが、「訪れ」てしまうものに対して感受性を開くための知恵に、もともとは関係あると分かる。

その意味で言えば、鏡さんのおっしゃるような「不遜さを改める」というメッセージが、ぼくたちの不自由さに固定された体験フレームを、柔軟に開いてくれる役割をしてくれているのではないかと思います。
(p31-32)


いわゆる心理療法、特にユング的な心理療法は、全く占いと構造が一緒なのです。ぼくはそのことに非常に早い段階で気がついたので、占いを心理学化するということで、ここ数年やってきたんです。

でもここ一、二年それに飽きてきちゃって、それはまさに宮台先生が先程おっしゃったことなんですが、要するに、世界に対して閉じてしまうんですね。そういう世界観は科学的でもないですし、心理学という一種のグランドセオリーを使ってしまうと、いろいろ面倒なことが起こったとしても、ぜんぶ心理学化してしまう。

宮台
よく分かります。開くという点からいうと、どのようなフレームの中にいる人も別のフレームへとリフレーミングした当初は「開かれた」感じがするんですが、新たに得られたフレームに固執すると、再度「閉じて」しまいますよね。
(p33-34)


「世界が自分に入り込む」という表現でおっしゃっていることと、「強度」というキーワードでおっしゃってることは、恐らく同じだと思うんですが、そういうものにどう開いていくかというのが大事なんだということですよね。

それに対して、占いをやっている立場からいうと、それも「強度」の中に含まれるのかも知れませんが、むしろボリュームを下げた音を強く感じられる感受性をどうやって育むかというのが大事だという感じがしますね。

宮台
ぼくの本では、「強度」に関して開かれるための「意味からの解脱の三類型」ということを言っています。詳しい類型の紹介は省きますが、対照的な類型だけを挙げると、「アッパー系」とか「ダウナー系」というのがあります。
(p37)

(中略)

ぼくが「強度に対して開かれよ」というと、すぐに誤解されるんだけれども、何か刺激的なもの、とてつもない非日常的なものにアクセスしようということじゃないんですよね。確かに試行錯誤のプロセスではそうしたアッパー的な試みもあっていいし、のちにダウナー的なものに開かれるために役立つこともあるんですが、そうした場合にも、むしろ豊かでかつ長続きするのは、刺激よりもむしろ、忘却しがちなミニマルなものに対して開かれることです。
(p41)

宮台
世界が本質的に未規定なものであるなら、ここから先は実存的な問題だけど、簡単に言えば、ある種の「何でもあり」的な部分でもあるわけです。ぼくが「感覚を開いたほうがいい」と言ったのは、強度を保持するためではなく、それにも役に立つということにすぎません。ぼくがいいたいのはもっと本質的な問題です。つまり、「ロジックを追求する」とか「ロジックで世界を理解する」とか、逆に「ロジックで説明できないものを占いで説明する」といったような凡庸な図式自体が、ぼくたちの感受性を曇らせているという事実を今日は申し上げたかったんです。「何でもあり」の世の中で、何と不自由な枠組みに落ち込んでいることでしょう。


全くいまのお話には同感です。「占いは当たるのか当たらないのか」と、まさしくフラットな質問をされるときほど、ぼくがイライラすることはありません。「占いを信じているんですか」という問いもそうです。そういうすごく単純な問題設定の中にハマらないでくれという感じが本当にしますね。
(p71)

宮台
(略)こうして、ぼくたちの社会認識は、全く因果性に基づいてないことがすぐに証明できる。

では何に基づいているか。これは社会学者ミードが言った理論ですが、一般的な他者が理解するように、自分も理解する、ということに基づいている。つまり、因果性じゃなくて、社会性に基づくコミュニケーションをしているということです。しかし、一般的な人間であればそう理解する、ということは絶対に証明できない。単に自分が思い込んでいるだけに過ぎないのです。つまり、ユングシンクロニシティを例にとるならば、私たちの社会的な理解はすべて、単に、無根拠にシンクロニシティを期待して、理解しているだけの話なんです。

実は、これが社会システム理論の最も根本的な認識で、ユング心理学と基本的に似ている部分があるということです。逆に言えば、ぼくたちに世界からやってくるメッセージの大半は因果性からはやってこないんですよ。では、どこからやってくるのかを考えるのが、心理学、社会学にとっても、非常に重要な課題だし、あるいは社会システム理論、占星術にとっても重要な課題なんだと思います。

(中略)

世界にしても、人間の関係性すなわち社会にしても、どうやって働きかけるか、ではなく、どうやって享受するか。すなわち、どう条件を変更するか、ではなく、与えられた条件の中でどう楽しく生きるか、に注目する。つまり「女性原理」的に世界と関わるということと、占いを通じて世界に対して感受性を開くということとの間には、少なからず関係があると思いますね。
(p76-77)