エラノス精神と、ともし火について。
昨日の晩、井筒俊彦全集の刊行を記念して開催された若松英輔さんと鏡リュウジさんのトークショーに行ってきた。
その内容がとてもすばらしかったので、備忘録もかねて少し書いておきたい。
http://www.junkudo.co.jp/mj/store/event_detail.php?fair_id=3268
テーマは、「井筒におけるエラノス」。つまり『意識と本質』が書かれた基盤と背景について。
1933年にフレーベという女性神秘家が、かのルドルフ・オットーの提言によりスイスのアスコーナの地で知的なサークルを作ったのがエラノス会議の始まりであると言う。以来、60年以上にわたってエラノスは、異なる知の領域からなる様々な思想家たちが、人間の精神に関するさまざまな事柄を討議するための接点として、その役割を果たしてきた。ユングの高弟ノイマンなどは「世界のへそ」とも評したそうだが、もともとはサナトリウムがあった場所らしい(鏡)。
そういう意味でも、エラノスは「エッジ」=垣根の上にあると同時に、逃げ込み寺=「シェルター」でもあったし、
そこに集う人々は「近代において、きわめて分が悪い、負け戦をしていた(鏡)」。
ではそんな彼らにとってのエラノス精神とは何だったのか?
それは「見えないものが見えるものを支えている、ということに尽きる(若松)」という。
言い換えれば、合理的・因果論的な捉え方ではなく、必ず共時的な捉え方をするということであり、
井筒の言う、東洋というのも、西洋的な啓蒙(「エンライトメント」)から漏れ出ていった「残余」なのだ。
あるいは、なにか一文字を、誰かからばーんと目の前に突き出されたとき、現代の日本人であるわれわれは、その言葉の“意味”を読み取ろうとする。なぜこの文字を突き出してきたんだろうか?とか。人生と言われれば、人生の“意味”とは何か?とつい「考えて」しまう。
そういう意味として読み取られるもの以外のすべて、意味の「余白」こそが、井筒のいう「東洋」なのであり、
それは物理的に限定された場所を指すのではなくて、イマジナルな領域としての、存在論的な「天使の住処」なのだろう。
したがって、そこでは、「「感じる」ことに積極的実在を認めていく(若松)」という態度が大切となってくる。
これは、よく分かる。
たとえば、一枚の絵をみて「これは○○派」とか、ある人の発言や文章を読んで「それは○○主義だね」いったふうに、概念として捉えるのではないということ。ミロのヴィーナス像を目の前にして何かを感じたとき、そこには「もっとなまなましいものがあるだけで、概念というのはない(若松)」はず。
これをジェイムズ・ヒルマンに即せば、「−ism(主義)と言っている場合は悪口で、動詞形で語っている場合はその逆(鏡)」。
つまり、なまの「感じ」というのは概念で固定化した瞬間に、死ぬということだろう。
そして、そういう「感じ」や「なまなましさ」によってこそ捉えられる何かやその地平を、エラノスに集った人々は、「ある」と「ない」のはざまにあるイマジナルだとか、ヌミノース、マクロコスモスとミクロコスモスのあいだにあるメディウムコスモス、M領域だとか、それぞれの言い方で語ってきたし、ユングが言っていたのも、「そういう場を確保しておかないと復讐されますよ?」ということ(鏡)。
文学者ジョルジュ・ベルナノスは、
「(中世では当たり前だった)悪魔のリアリティーがなくってきたのが近代」だと考えていたし、
「悪魔の願いというのは、自分の存在に人間が気付かなくなること」なのだそうだ(若松)。
これは理想の王の治世を考えると得心がいく。
だからこそ、「ほんとうに感じていることを考えよう」
「考えるとは、真向かうこと、交わること」(若松)。
例えかすかな予感であれ感情であれ直感に過ぎないものであっても、
自分の感じたことと真剣に向き合うということ。それが考えるということ。
そしてその結果、
「「正しい○○」、「自分は正しい」というところから、少しずつ離れていく、それでも生きているということを感じよう。」
「不完全性を知るところから、(愛というより)情愛ははじまる。(若松)」
確かに、天使や悪魔のいない思想-史というのは、ひどく味気ない。
*
トークショーに行った翌朝、幼稚園児たちが哲学するドキュメンタリー『ちいさな哲学者たち』を見た。
そこに登場する4歳の彼らは、大人と違って先入観がなかったし、「感じていること」に正直だった。
だから、こちらがうまく誘導し、“それ”を外へ向かって出す=表現する回路を作ってあげれば、語られる言葉はそのまま哲学になる。初めはぎこちない子どもたちの会話も、回=会を重ねていけば、そこにはうっすらエラノス精神さえ宿しはじめ、それと入れ替わりに、誘導役だった先生は脇役に回らざるを得なくなっていく。やがてそれは、各々の家に持ち帰られ、家庭内の対話に火をつけ、波は広がり、硬直化した何かがほどけていく。
そこには間違いなく、ひとつの哲学、ひとつの思想が生まれるときの「振動ないし躍動(若松)」の姿があった。
ドキュメンタリーの冒頭、幼稚園の先生は、取り囲む子どもたちに真向かい、カエルの仮面をつけてからこうささやく。
「さあ、目をつぶって。頭の中にはなにがある?なにが見える?」
・・・・・・。
ひとしきり間をおいて、一本のロウソクに火を灯したら、授業開始だ。すべてはそこから始まる。
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