秘密はすでに見えている

「心理占星術」などと言ってみても、占星術家によって解釈体系はてんでバラバラだし、結局それは個々人の中にしか存在しない。ということについてここのところ考えていた。ユング心理学も畢生ユング自身のための心理学であり、厳密には彼ただ一人においてしか存在しない、というのと同じ意味で。

先日、若松英輔さんと鏡リュウジさんの井筒俊彦の背景をめぐる対談(以下、「対談」)について書くなかで、イマジナルなエラノスについて触れた(地理的ないし歴史的なエラノスではなく)けれど、そこにあるのは概念ではなく、ただただ「なまなましいもの」、触れえるものだった。

だから、私たちは「正統な/あるべき/正しい心理占星術」について語ったり、思い描いていくとき、その“もの”を見失い、自分の思い描いているものの外にこそ何か正しいものがあると錯覚してしまう。つまり「正しい」という言葉は、本来「自分が信じている/感じている」という意味でしかない(若松)。

そういう意味では、自分の中で信じられていたり、すでにあるものを想いだしたり、感じなおしたものだけが「心理占星術的」だと言えるし、翻って心理占星術の実践とは、そうした想いだしや感じなおし、思い当たりを書き加えていく行為に他ならない(ただしこの場合の「書く」とは、テクストとしての生の書き換えへ通ずる)。

ホロスコープを出して、なにか計算したり、記号をいじくっていると、何かふつうの世界からは隠されたものを特別に解読しているというふうな話になってくるけれど、実際には秘密はそこらじゅうに目に見えているし、ただその意味や文脈に気がつかないだけ。例えば夢をみると、大抵の場合イメージは脳裏に残っているけれど、その意味はよくわからない。ただ、なんとなく引っ掛かった状態でしばらくしていると、ハッとその意味が分かる時がある。それは必ずしも心理学の言葉で全て説明できるわけではないし、その必要もないけれど、兎に角「思い当たる」のだ。そしてその瞬間、リアリティーは編み直され、テクストは一瞬で書き換わる。

そういうことを素直に認識できるかどうかが、心理占星術との付き合いでは大切になってくる。というのも、心理占星術的な営みを長く続けていると、ふっと夢から覚めるように、どうしてもなまなましさから遠ざかってしまい、すべてが疑わしくなってしまうこともあるし、かと思うと不意に、再びグッと引きずりこまれ、すっかりその状態にハマって、より直接的に感じていられることもあるからだ。対談で鏡さんはそれを「ボケたりサメたり」と言っていたが、記憶が確かならば、ずっと以前はそれを「メビウスの輪」と言っていた。人間、変わるときは一瞬で変わる。戻ってくる。そういう一瞬を感じとるということができれば、それはそのまま心理占星術の実践そのものだと思う。

あるいは対談の別の箇所で、「占い・占星術・オカルトがなぜ怪しいか?それは、生きているから。市場があるから(鏡)」という発言もあったが、それは確かにそうだろう。それらで扱っている秘密は、現に私たちの生きている経済や生活圏内にすでに当たり前のように組み込まれ、かつ動いている。そうなると、そこで人に問われてくるのは、知識などではなく、人としての感受性(その開け)だろう。どこを通って、いつ変わるのか。その中身と経路、気配について。