人はなぜ空想を現実として知覚するのか

先日、受講者の方から講座が終わった後に「太陽と月(の占星術的な解釈)を自分自身そのもの、ないしそれに近いものだと思い込む傾向にあるのはなぜか?」という質問を受けて、その場であまりうまい返答ができなかった。そのことについて、整理がてらここに少し書いておきたい。

太陽と月は、太陽系宇宙の見かけ上の動きの中に人間の本質や人生の諸相を見出す占星術の中心概念であり、解釈的には公的な顔(太陽)と私的な顔(月)の両面を表すとされている。けれど太陽も月も、当然といえば当然のことだが個人の所有物(もの)ではない(他の惑星も同様)。より厳密に言えば、それらは“私ならざるもの”であり、「なぜかは分からないがそうしてしまった」という風に“私以外のもの”が“私”の中に入ってきてしまう事態(こと)であると言える。つまり、“私”とは他ならぬ私であるはずなのに、実際には多くの瞬間で“私ならざるもの”とともに生きており、開かれている。しかし、どこかしら固定しなければ“私”という気付きもまた生まれてこない。これが一筋縄ではいかない“私が私であること”をめぐる根本的なジレンマのややこしいところであり、面白いところでもある。

そもそも「太陽と月(の解釈)こそ私そのものである」といった言い方の何が問題なのかというと、理屈以前に“息苦しさ”を強めてしまうからだ。二つの天体とその組み合わせに一定の自己同一性をもつ「私らしさ」を据えれば、安定した生活や充実した対人関係を築いて“身を固め”たり、“大人になる”ことの助けにもなる。ただし、あまり身を固めすぎると、用意された型にハマり過ぎてかえって潰しがきかなくなるということが起きてくる。もちろん、かと言って自分にかまけてばかりいれば世に出ることもできないが、息苦しさが次第に極まってくると、おのずと人生の道行きも途絶え、行き詰まっていく。現代において、息苦しさから解放されようと人が占いや占星術を参考にするのだとすれば、これでは本末転倒だ。

行き詰まるタイミングや形式はケースバイケースだけれど、大抵は、自分と異なる価値観の言葉や人間、あるいは築き上げた“私の王国”を相対化するような問題群を遠ざけ、排斥・封殺し、いつの間にか自分に都合のよい言葉だけを探し、語られざる/隠れた真理をそこに還元・制御するようにして自己正当化が進んだ結果、墓穴を掘るようにして起こっているように思う。自業自得なのだが、その大元にはオイディプスのごとき傲慢(hubris)があるのではないか。人は生きている限り、安定した自己同一性へと安らおうとする。それどころか、自存のためなら手段を選ばないところさえある。凄まじき自己防衛本能のとりこであり、その傲慢さこそが時に人を英雄や超人にも仕立て上げてきた一方で、同じ分だけ、あるいはそれ以上に当事者の想定をこえた悲劇をも生み出してきた。

こうした傲慢さ(hubris)が真理と対立しつつも、深く結ばれるようにして在るように、自己同一化した生き方のハマりこんだ自己完結や既存の定義付けが、生の、そして私の語られざる/隠れた側面(真実)によって異化され、圧倒(無化)されつつ、挫折やゆらぎ、反転逆転によって破られることを、人は恐れつつもどこかで求めている。そして凄まじき傲慢の“破れ”を通して、固定された私を中心とした閉鎖系としてのコスモロジー(息苦しい存在状態)が開け、大きく息を吸い込み、いのち(意の乳)を養うことができるようになる。風がふき、息が続き、思いがけない方向から物語の続きが紡がれ、狭い自己限定や生の有限性が過ぎこされてゆく。

考えてみれば、個人的にもそうした“破れ”の経験について物語ってくれた人物との出会いが、占いを始めることになったきっかけだった。作家の車谷長吉が、「生が破綻した時にはじめて人生が始まる」と書いていたのもこういうことかも知れない。占星術を通して私や他者の在り方を語る言葉も、語りえぬものからの問いかけや、圧倒される感覚を担い、己れの傲慢さを真摯に見つめるものである限り、逆説的に豊かさを内包するものになるのだと思う。

“私”とは傲慢さの度合いに応じて伸びるピノキオの鼻のようなものではなく、本来、生と死のはざまでゆらめく風や、吹きわたる息吹、流れの交錯する十字路のようなものとして、あるいは宇宙の片隅のささやかな吹き溜まりのようなものではないか。そうしてたえずゆらぎ、そよぎ、漂泊しているからこそ、「私」は親と子、男と女、生と死、自我と時空の境界を越えて、むすび、つながってゆける可能性に開かれている。

そういう視点で見てみると、やはり太陽と月は、私そのもの(実体とそこにヒモづく属性)と言うより、傲慢さや息苦しさにハマり込みがちな“私”の自己同一性を解消せんと働きかけ、見守り、真理の響きを時に葉を揺らして伝えてくれる遊行柳のような古木であったり、先祖や親の想いを伝える水面の波紋として映じてくる。私はそうして“私以外のもの”に脅かされたり支えられたりしながら生きているが、だからこそ、あくまでそれに気付いて、生きた思いを結晶化させていくのは、現にいまこここにある地球上の私自身なのだ。

願わくば、人や運命に翻弄されないよう、あるいは馬鹿にされないために生きるのではなく、真理の響きにさらされつつも、己れの傲慢の滑稽さを笑い、出会った人に笑ってもらえるような自分でありたいし、そこから語っていくのでなければ、と思う。