本の帯とアスペクト

地球から見た時に或る惑星同士がとっている一定の角度のことを、占星術では「アスペクト」と呼ぶ。これはもともとラテン語で「見ること、注視」などを意味する“aspectus”に由来した言葉で、惑星同士がたがいに視線を交わし「アスペクトする」とき、その角度の種類(つまりどんな視線か)に応じて、両者は協力的ないし対立的に働くとされている。自分はそんなアスペクトを、占星術を勉強し始めた頃からとりわけ魅力的だと感じてきた。

1947年に出ているNicholas deVoreの『Encyclopedia of Astrology』によれば、古い時代には“Familiarity”とも呼ばれていたようで、これは「よく知っていること、精通、親密さ」という意味だ。視線が通い合った惑星同士の臨場感を、実になまなましく表してくれているように思う。

シンボリズムにおいて、光が「知性」を表すとすれば、目は「知性を受容する機能」であり、「認識」そのもの。あるいは「心の窓」であり、「愛」の宿る場所でもある。そんな目からビームのように発された視線が交わることで、受容や反発や軽蔑や憧憬が発露して、そこから様々なドラマが展開されていく。逆に他の誰か何かの視線と交わらなければ、あるいは誰からも見られもせず、誰の目ものぞき込むことがなければ、出会いも別れも起きはしない。何も始まらず、何も終わらないまま、時間だけが過ぎてゆく。それはたまらない苦痛だ。

そんな苦痛について、個人的にも覚えがある。高校生の頃、一時誰とも目を合わせないで過ごす日々が続いていた。当然何も起こらず、始まりもしないままひどく焦燥感に駆られ、毎日書き続けていた日記には、恐るべき思考の堂々巡りが膨大な量の文字列となって並んでいった。後になって「無明」という言葉を初めて知ったとき、真っ先にその頃書いていた黒々とした日記帳のことが頭に浮かんだ。

そんな無明を開いてくれたのが、本屋での立ち読みだった。もっと厳密に言えば、たまたま近くを通りかかった自分の目を引いてくれた本の帯だった。そこにはこう書かれていた。「アパート(a part) 上には誰がいる。 下には誰がいる。隣りには誰がいるのだろうか。特別というものはなく、単に魂の過程に見合った役割の技」。あるいはこうだ。「この世界は、まったくの偶然で、別様の世界に変化しうる」。最近なら、こんな帯とも出会った。「人間はそれほど速くは変わらない」。そんな帯を目にして、はじめて自分から視線を投げ返した。投げ返すように、本を読んだ。そうすることがなければ、自分は永遠にあのままだったように思う。本の帯は、無明に差した一条の光だった。

本の帯は、本が投げかけてくるウインクだ。自然と目を引き、そして目が合い見つめあう。思わず本を手に取り、その中でこれまで考えたこともなかったような言葉と出会う。けれど、どこかはじめて会った気がしない。経験的にも、そういう感覚が起こったときは、自分の中で確実に何かが変わる。それは、あるいは人の中の惑星が「アスペクトした」瞬間と言えるだろう。そう、本の帯はアスペクトへの“予感”そのものなのだ。

実際、本の帯に注目して本屋さんの中を歩いてみると、本というものが実にさまざまな角度から僕たちにウインクを投げかけてくることがよくわかると思う。「120万部突破!」や「〇〇賞受賞作」といった大げさで尊大な帯が目につく一方、「とにかく泣ける!」という至ってストレートなものもあるし、「<絆>は麗しい言葉、だからこそ、暴力が潜んでいる」など、少しハッとさせてくるものもある。大抵、初めはこんなものじゃ自分は引っかからないぞと気を張っていても、隈なく書店を歩き回れば、必ず一つや二つ、自然と目線が吸い寄せられる帯に行き当たる。そして、不意に時が止まる。

もちろんどんな帯に惹かれるかは、好みもあれば、年を重ねるごとに変わりもする。おそらく日によっても変わる。ただ一つ確かなのは、その時々にいかなる視線に惹かれ、どんな視線を投げ返しているかにこそ、その人の心の在り様が如実に反映されるということだ。

とはいえ、よく考えてみると、自分がある対象のどこに惹かれているのか、あるいはその対象をどう“見ている”のか?という問いは非常に微妙な問いでもある。それは例えば14歳という年齢がひどく複雑な問題を孕んでおり、「第二次性徴期」や「中二病」といった一面的な言葉だけでは語りきれないのに似ている。あの頃特有の空気感のようなものは、どうにも言葉では説明しようがない。あるいは、28歳という年齢を迎える頃に多くの人が経験するであろう「自分はこれで“一人前の大人”と言えるだろうか?」というくぐもった自問と、14歳の説明できなさと、両者の何がどう違うのかを明晰な言葉で説明しようとするには、誰しもがまず一度居住まいをたださなければならないだろう。

或る惑星同士がどんなアスペクトを取っているか、またそこにはどんな意味が宿っているのかを考えるのは、そうしたこととすべからく似ている。少なくとも自分にとっては、黒々とした高校生だったあの頃、たまたま目を引いた帯になぜ惹かれたのか、そして手に取った本の中で何を見つけ、そこで何が変わったのかを考えることと等しい。本の帯ひとつで人は変わる。だとするなら、アスペクトひとつで人生が変わらないはずがない。ウインクは一瞬。そこで醒めたのか、惚けたのかのかは当人次第。時が止まったような、沈み込むようなあの一瞬を、アスペクトを通して思い出そうとしているだけなのかも知れない。

ここから宣伝ですが、来週4/22から、「アスペクトを学ぶ―西洋占星術マスター」を朝日カル新宿校さんでやらせていただきます。全3回をかけて、とことんアスペクトだけを扱うのは初めてなので、教室に持っていくだけの熱量をこれからじっくりと作り上げていきたいと思います。