芭蕉、ハイデガー、占星術

先日の古典勉強会で、チェトンミンさんは、書かれたテキストをコントロールしようとするのが作家論や作品論の立場とするならば、意味論や読者反応論は、テキストと向き合い、テキストそれ自体の(こちら側への)開かれを聴きとろうとする立場だ、と言っていた。自分がやろうとしているのは後者なのだと。

それは言葉というものをどう捉えるか、という問題でもある。川や星空など自然をみたとき、そこに自らの真実や人間的心情を見出し、あくまで自分自身を表すための道具として言葉を捉える(人間中心主義への自己完結)のか。あるいは、言葉そのものが人間に語りかけてくるようにさせ、それを聴き取ろうとするのか。

個人的には、まったく同じ問題が、占星術においても存在するように思う。古代バビロニアにおいて、天文現象は「神の書きつけた文字(音や字の並び、魔法)」であり、それと対する行為は一種の宗教的実践のようなものだった。その一方で、ギリシャ以降、天文現象の中に規則性や秩序を明確に見出すようになり、機械的宇宙モデルとともに決定論的な占星術の伝統が築かれていった。こちらを合理主義的占星術とすれば、神々と語らうかのような古代型の占星術アニミズム占星術と言ってしまっていいだろう。

十数年前に出た、鏡リュウジさんの『心理占星術への招待』という本にちょうど下のようなイラストが載っていた(今手元にないのでうろ覚え)けれど、これも合理主義的占星術アニミズム占星術の比較、すなわちテキストへの向き合い方の典型的対比を示してくれている一例と言える。


五月雨を あつめて早し 最上川

例えば芭蕉が山形で詠んだ上の句はどう解釈できるだろうか。月日の速さやその実感に込められた憂いや感慨、という風にも取れる。雨という点の集合が、川という線となり、やがて海という面へと流れ込んでは消えていく。どんな人でも納得のいく、人生についての分かりやすい説明のような句。それが言いたいがために、最上川や五月雨をうまく、有効に「使用」した句。

確かに、雨が降らなければ川は流れていかないし、川は海へと接続している。けれど、この句が語っているのは果たしてそれだけのことだろうか?線としての最上川とはどこか青白い顔をして、過去から未来へ一直線に、まるで金太郎飴のように引き伸ばされた時間のようだ。それは解釈するこちら側に半ば強引に引きつけられて成立している一解釈に過ぎないとは言えないだろうか。あるいは、こちらからは見えていない死角や別の顔(素顔)があるのではないか。

川が海へとつながっているのは誰もが知る常識ではある。けれど、この句でまず初めに登場してくるのは雨だ。反対に、海は直接言葉として詠まれてはいない。その登場していない海を、川の彼方へ置こうとするのはあくまでこちら側の勝手であり、因果論に慣れた近代人最大の思考癖と言ってしまっていいだろう。でが結果ではなく、起源の方に目を向ければどうか。海とつながっているのはむしろ雨であり、それはいつでも目の前で降り続けている。雨は雲より生じて地上に川を作る。陸地と海は相互に作用しあい、その全体の循環が、雨として刻一刻とこの場に現前している。川と違って、雲はたくさんの人に共有されている固有の名前もついていなければ、捕まえることもできないけれど、だからこそ雲は海に近く、雨は両者を結びつけているのだとも言える。だとすれば、この句の語っているのはそれらのつながりだろうか。全体の循環の中で唯一名前のつく「川」は、目に見えて「早く」雨と海を結び、現在を死へと運ぶように見えるけれど、逆に「目」で捉えようというモードから離れられれば、雨はいつでも空とつながり、海ともつながっている。ここには明らかにリニアな線的時間とは異なる、循環的な時間がある。そしてそれはいくら遡っても、決して遡りきれない無始点の過去から、常にすでにふり続けてきた五月雨の中にまぎれこんでいる。

チェさんは、この句の語るところについて耳を傾けるためか(あるいはある種の遊戯としてか)、ここでハイデガーの『存在と時間(細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫)』の一節(第七十九節 現存在の時間性と時間の配慮、下巻p366〜)をこの大著を象徴するエッセンスの一つとして引用してくれた。

「現存在は、おのれの存在においてこの存在そのものに関わらされている存在者として実存している。現存在は、本質上おのれ自身に先立っているので、あらためて自己を考察するというようなこと以前に、すでにおのれの存在可能へむかって自己を投企している。そしてこの投企のなかで、それは投げられているものとしてあらわになっている。」

現存在Da-seinとは、いわば「雨」だ。雨粒の一滴一滴が見えている状態の意識と言ってもいいかも知れない。未文化な主語のまま、「おのれ」を超えた自分に開かれているわたし。それは「おのれ」という自覚が芽生える以前からふり続けてきた。だからそんなわたしは、川へ、現実へ、そして未来へと、つねに否応なく投げ込まれるようにして存在し、固有名詞をもった主体として顕現することができている、と。大事なのはこの後の箇所だ。少し長いけれど引用する。

「(中略)…われわれはまえに、本来的実存と非本来的実存とを、それぞれをもとづける時間性の時熟様態という観点から性格づけておいた。それによると、非本来的実存の無覚悟性は、不予期的=忘却的な現持の様態において時熟するものである。無覚悟な人は、かような現持のなかで出会ってこもごも殺到してくる手近かな出来事や偶発事件をもとにしておのれを了解している。あわただしく仕事におのれを紛らわせながら、無覚悟の人はその仕事に自分の時間を奪われている。彼の特徴になっている<私は時間がなくて>という話し方は、そこから来るのである。

非本来的に実存する人がたえず時を失っていていつになっても時間がないのに対して、本来的実存の時間性の特徴は、覚悟性において決して時間を失わず、<常にゆとりを持つ>ことにある。けだし、覚悟性の時間性は、その現在についていうと、瞬視という性格を帯びている。それが状況を本来的に現持するとき、その現持はみずから主導性をにぎるのではなく、むしろ既往的将来のうちに抱かれている。瞬視的実存は、本来的な歴史的な自立性という意味において、運命的に全き伸張性として時熟する。

このように時間的な実存は、状況がそれに要求するものにそなえて、<常住に>時間を用意している。ところが覚悟性は<現>をこの形でいつもただ状況として開示するものなのである。それゆえに、覚悟のある人にとっては、開示されたものごとは、彼がそれに接して無覚悟のうちに彼の時間をうばわれるというような形で出会うことが決してないのである。」

時熟などややこしい言い回しはあるけれど、「無覚悟な人/そうでない人」とは、「閉ざされた人/開かれた人」と言い換えていいだろう(byチェさん)。「不予期的=忘却的な現持の様態」とはまさに「最上川」であり、そういう形で<時>が実現する(時熟)様子が「あつめて早し」。そうやって川に没頭し捕らわれるように生きている状態が、ある意味ごく一般的でノーマルな日常の過ごし方でもある。例えばそれは「もう1年も終わりかー、ほんと早いよねぇ」なんて忘年会で言い合ってる時の「われわれ」であり、エンデの『モモ』に出てくる、気付かないうちに時間泥棒に時間を盗まれている人々のこととも言える。そういう状態の「われわれ」は総じて忙しく、時間がない。そういう自分と、「既住的将来のうちに抱かれている」即ち「自分で生きているのではなく、生かされている」自分というのは、同じ人間であってもまったく異なる地平に立っている。どうしたら、その隔たりをひょいと越えられるだろうか。最上川へと注がれそこに没頭している目を、その眺めを、変えることができるのか。

もうこれ以上、ここで逐一下手くそな書き下しを試みるのはやめておきたい。ただ、芭蕉にしろ、ハイデガーにしろ、共通して言えるであろうことは、機械論的決定論の立場ではない、何が起きるか分からない現実へ人間が介入していくそれなりの余地や仕方があるという(占星術上の)立場を、深く基礎付けることができる、隔たりを越えた"経験"を豊富に持っていたということ。『存在と時間』も、『おくのほそ道』も、そんな経験に裏打ちされつつテキストが織り出されていったが故に、歴史に残る傑作なのだ。

例えばルディアがその思想の核心部分について語る言葉は、より味わい深く、完璧な形で時おり芭蕉の中に見出すことができるように思う。深い意味の味。それは存在の味に違いない。

「every moment is the synthesis of all past moments and the source of all future moments.」(Dane Rudhyar、『Personality of Astrology』、1936)
(刻一刻と刻まれている<時>は、過去すべての来歴、そしてすべての未来の出どころとつねに共にある。)拙訳

「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。」(松尾芭蕉、『おくのほそ道』、1702)
(the months and days are the travellers of eternity.the years that come and go are also voyagers.)ドナルド・キーン

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

英文収録 おくのほそ道 (講談社学術文庫)

英文収録 おくのほそ道 (講談社学術文庫)