2014年の春分図雑感

20日春分の日の晩は、鏡さん宅での宴会に参加するのと並行して、
大阪でラクシュミーさんいけださん芳垣さんらのやっていた国際占星術デーUst放送に
電話で春分図についての一言コメントさせてもらった。

やはり今回は何と言ってもまず東の地平線に昇っている冥王星が目を引く。
先のUstでもこの点について少し触れたのだけれど(山羊座14度はベヘリットの度数として)、
チャート全体についてのマンデーン占星術的な詳細な読解はここでは省くとして、
この際とりあえずその一点について思ったことを書き留めておきたい。


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冥王星と「怨み」

まずASC(東の地平線)についてだけれど、マンデーンではASCは国の主体を指し、
まがりなりに民主国家である日本の場合は国民や世論を表す。そこに冥王星が乗っていれば、
国民の態度や世論のあり方に、根本的かつ不可逆的な変化が起こっていく、と解釈できる。

冥王星というのは、占星術で扱う全惑星の中で、最も対象の奥深くまで浸透する性質があり、
しかもそれをたらたらと時間をかけてするのではなく、スパッと一気にやるのが特徴だ。
だから外から見れば突然変異でも起きたか、短期間で姿形そのものが豹変したかのように見えてしまう。

そしてしばしばそうした劇的な変化は、当事者の自覚がないところで進行するため、
身近であれ赤の他人であれ、関係する他者からの尋常でないレスポンスによって初めて気が付くことになる。
というのも、冥王星は非常に激しく強い緊張や凝固をもたらし、次に圧縮されたものの噴出と爆発を起こさせるから。

例えば「百年の怨み」という言葉は冥王星の性質をよく表してくれる感情の一つだけれど、
自分の側に正義や大義があることを示すためには、「悪魔」が必要となる。
しかも大体自分と似たものを感じる相手を悪魔にして、ひどく憎んだり攻撃的になる。

00年代初頭、ブッシュがフセインに対して取った態度などはその代表だろう。
ただし、あそこに至る背景には、そもそもアメリカという国がその成立の経緯において、
差別迫害された奴隷、そしてイエスの宗教であるキリスト教の最も過激で極端な担い手の最前線として形成された、
ということが大きく関係しているように思われる。

人が差別され屈辱を受けることで抱いた劣等感や屈辱感を補償するには、
更なる弱者を作り出し、自分の受けた被害を転嫁させ、同じような目に合わせて慰みものにするのが一番だ。

つまり、そうした鬱憤晴らしが個人レベルではなく、民衆レベルの怨みとして発動した事例が、
アメリカの対イラク攻撃だったのではないだろうか。

ブッシュのあの臆面もなく他国を諌め罰しようとする態度というのは、ある種の近親憎悪だろうけれど、
忘れてはならないのは、イラク攻撃はブッシュの独断ではなく、アメリカ国民の過半数の支持を得てのものだったということだ。

このような「怨み」の発動は、怨みを抱いた当事者自身を困惑させたり、あるいは、
自分が何らかの強制力の犠牲や被害者になったかのように感じさせるかも知れないが、
確実に言えることは、もしそう感じたとしてもその原因は外側ではなく内側にある、ということ。

今年は特に、世論が極端になり、主張が激化した時こそ、自分の内側に立ち戻るよう、気をつけておきたい。



■怨みの鎮め方

ロブ・ハンドはASCへの冥王星合の際に大切なこととして、「自分自身に触れろ!」と書いているけど、
それは心の死角に溜め込み、意識の上ではすっかり無かったことになっている過去の鬱憤や忘れている記憶に光を当て、
そこにある受け入れがたい“邪悪(ねじ曲がり)”や“弱さ”と対面せよ、ということだ。

そのためには、心の奥から不意に「許しがたい、罰していい、復讐してやる」といった精悍な残忍性が顔を出してきた時、
潜在意識の中にある怨み、つまり劣等感や怒り、トラウマを補償しようとする強力な欲求がいかにして心の内に住み着いて、
どうやって自分の意識に入りこみ、自分を支配するようになったのかを理解し、認識しようとしてみる必要があるだろう。

特に、自分くらい「邪悪さ」というものから縁遠い人はいないだろうと思う人であればあるほど、
無意識的に悪への傾向を持っているのが普通であり、注意した方がいい。
“まっとう”な自分を不安にさせる悪夢というのは、潜在する怨みから湧く泡のようなものであり、
罪人とそうでない者の差は、ほとんどの場合、社会的状況や生まれた環境の差でしかない。

例えば、恵まれた才能があってもそれを否定され、あるいは環境に使うことを許されなければ、やがてそれは悪として現れる。
ただ、そこで復讐しようとする気持ちの大きさというのは、当初は善へと向かおうとした気持ちの大きさと同じであり、
まったく同質のエネルギーと言っても過言ではないだろう。

逆に言えば、ある人が自分の才能を使って人の役に立つ仕事をする衝動というのは、悪への衝動の特殊な現れ方の一つといえる。
風邪は薬、病いは治療であり、悪への傾向は善への傾向と同じ、過去の自分を超越しようとする衝動の異なる側面に過ぎない。

つまり「邪悪さ」というのは、自分を突き動かす衝動が、場違いな環境、間違ったやり方で発揮された際の現われなのであり、
「自分がどこで何をすべきなのか分からない」という事態は、即ち、心の内に邪悪さを住まわせ、怨みを抱くことに通じている。

先のキリスト教的な怨みというのは、元を辿れば「自分は虐げられた/だから復讐してやる」という奴隷的な感性に遡ることができたが、
案外、この怨みというのは、出生図に生きづらさを解消するヒントを見出そうとしている、多くの人の悩みと表裏一体なのかも知れない。

(世界の中の日本という観点から考えても、この場合、アメリカ的な支配衝動に応じようとしている「経済的な奴隷根性」と言ってもいいだろう)


以下、『月刊全生』より野口晴哉氏の言葉を抜粋しておく。
怨みと向きあい、鎮めていく上で参考にしたい。

活元運動(※)を行っている人々は、自分の裡にはかりきれない程のちからのあることを自覚します。
自覚は又ちからです。

自分の裡のちからに気づかない人は、少しのことにおびえたり威張ったりして、
冷静にものごとの経過を、特に自分のことだと見極められませんが、
ちからを自覚した人は自ずと、その時そのように対処する構えをしております。
同じ人かと思われる程異なって見えることも少なくありません。

健康であるということはつくりあげるものではない、
自然のことだというような簡単なことでも、
生きるちからの自然のはたらきを知り、
そのちからがあることを自覚した人でないと、
平素はそういっても、イザという時には乱れてくるものです。
自覚ということはちからです。

※活元運動(かつげんうんどう)とは、昭和20年代野口晴哉が提唱した野口整体の要素のひとつで、身体自らが不調を回復する動き、またはそのための体操法・行法。(wikipediaより)