「夢の跡」とホロスコープ

7月もチェさんの勉強会に通い、芭蕉のおくのほそ道を読んでいた。
ところは既に旅の折り返し地点でありクライマックスでもある平泉。

かつて黄金の王国とも言われた栄華の中枢・奥州藤原氏三代の館跡も、500年後の芭蕉の時代にあっては既にその名残もなくただ廃墟として残るばかり。

思わず「国破れて山河あり、城春ににして草青みたり」と杜甫の詩を口ずさみ、笠を敷いて座せば、落ちる涙。思いを馳せる。過ぎる時間。そして句が刻まれる。

「夏草や 兵どもが 夢の跡」

聞いたことのある有名な句だ(確か漫画『修羅の刻』に出てきた)。
ただし、この句は別の句集(『猿蓑』)で既に詠んであったものを、後に「編集して」ここにくっつけたのだそうだ。つまり実際その場では、句を詠むという行為はされていない。あるいは不可能なほどの状況だったのかも知れない。

であるならば、この句に何を感じ、どう読むか?
チェさんに問われて、直感的にこの問いは句の解釈的な奥行きに関してだけでなく、現実の自分=占星術家としての自分にとってもすごく重要な問題と感じた。

功名と栄誉のために戦った兵ども=藤原氏三代や義経、その忠臣たちも、ついにはこの城に篭って討ち死にし、一場の夢の跡も今では夏の草むらとなっている。

そのことに思いを込めて読めばこの句は、一瞬の内にはかなく消えさる人間と、その跡に生えては枯れ、枯れては生えて、悠久の時間とともに茫々と繁る自然の対比を、特に前者に力点をおいて、そのはかなさを詠んだものとするのがもっともらしい。

確かにそういうふうにも読めるが、と同時にどこか引っかかるところもある。
チェさんは、夢を見ているのは誰か、夢見られているものは何か、考えなければならないと言っていた。

先程の読み方では、「夢の跡」の夢はもちろん「兵ども」の夢ということになる。
→兵ども created 功名(としての夢)
主語は兵どもで、彼らがこの世の功名栄誉という夢を追い、映し出していた。
動詞は過去形(か過去完了形)。すでに終わった話。

これが逆ならどうか?

夢 create 兵ども(の姿)
夢 is creating 兵ども(という存在者)

動詞は現在(進行)形。主語は夢で、夢が兵どもを映しだし、創りだししている。
つまり、事態はまだ終わっていない。続いているし、少なくとも現前している。

夢見られているのは兵どもの一生、ならば、この夢とは誰の夢か?
と言うより、夢というのは、そもそも誰か個人ないし集団が抱く「幻覚」「願望」「理想」といった意味合いの中だけで使われてきたものなのだろうか。dreamの訳語として明治期以降に使われるようになったそれ以前、つまり芭蕉が行きた時代、ないし芭蕉が思いを重ねた中世においては?

竹内整一氏の『やまと言葉で哲学する』によれば、日本人は「夢」という言葉を次の3つの用法ないし志向性において使ってきたという。

⑴夢の外へ・・・この世は夢、だが夢ならぬ外の世界があり、そこへ目覚めていく
⑵夢の内へ・・・この世は夢、ならば、さらにその内へと、いわば夢中にのめり込んでいく
⑶夢と現のあわいへ・・・この世は夢か現か、その「ありてなき」がごとき生をそれとして生きようとする

「⑶は、「夢の外へ」とありありと目覚めようとすることでもなければ、「夢の内へ」と没入しようとするのではなく、「ある」けれども「ない」、「ない」けれども「ある」というあり方を、それとして自覚的に引き受けて生きようとする方向である。「世は定めなきこそいみじけれ」と、無常世界を逆説的に楽しもうとした『徒然草』などに典型的に見られるものである。」(前掲書、p130)

氏はここで夢(ゆめ)を、人が浄土や彼岸へ「こえて」いく際に認識される「この世の像」でもなく、「一期は夢よ、ただ狂え」のように人が狂う際に入っていく「心の世界」でもないものとしての在り方を示唆している。

もう少し踏み込んで言えば、むしろ覚めたり酔ったりする、⑴と⑵二つの動的な相関(出逢い、あわい)に人がたたずんでいられる何らかの場(アクセスポイント)ないし働き(装置)としての「夢」という意味合いが、かつて日本社会の中にあったのだと思う。

そしてその解釈に立てば、芭蕉によって刻まれた先の句は、義経や以下の勇士、そして彼らの生きた一生は、こちらがアクセスして呼び出しさえすれば今もこれからも在り続けるし、いつでも出会うことができるという、じつに生々しい死者たちの臨在の感覚・実感を伝えるものとしても読める。この場合、「夏草」は呼び出すための呼び水であり、検索キーワードのようなものとも言える。

チェさんは「夏草が舞台、兵どもが役者とすれば、夢は脚本家のようなものであり、あるいは深い心の働きであり、これは人間の根本構造ではないか」と言っていたが、一点「夢の跡」とある点についても注意が必要だろう。芭蕉がアクセスできているのはあくまで痕跡であって、夢が兵どもを生成し、顕在化させたその瞬間については直接経験できない。

こうした意味での夢の働きは、「There is a dream、dreaming us.」と言うときのdreaming、ないし、タルコフスキーの「惑星ソラリス」に登場する智慧ある海のイメージに近いかも知れない。

こうした「ゆめ」についての視点の向け変え、ないしそのあわいに立つことは、恐らく占星術におけるホロスコープとはそもそも何かを考える上でも大切な観点になる。