1.25〜31日記
1月25日(月)
約半年ぶりのチェさんの古典勉強会に出るため中野のウナ・カメラ・リーベラへ。いつものように座禅和讃をみなで唱和してから、白隠の『夜閑船話』について、今日は改めて大枠の話。
のっけからチェさんに「法に触れる」とはつまりどういうことだと思うかね?とにじり寄られ、押し黙る。白隠はね、それは「隻手音声(せきしゅおんじょう)」なんだと。音をきいて、パッとひらめくような体験、ただしどうも、聞こえないはずの音をきくことなのだいう。ここでいう「きく」とは、耳で「聞く」ことに限定されず、鼻や腕が「効く」「利く」ことだったり、あるいは匂いのことだったり、色や味であったりする。つまり共感覚ないし、複数の感覚をうまく統合してはじめてうっすらと感受される類のものであり、そうしたものへ研ぎ澄まされていく営みの先で法は触れ得る。あるいは、聞こえるものがサッと消えたときに、はじめて聴くことができるものであり、それは沈みこむような静けさの内へ、まるで雫になったように落ちていき、下へ下へと心が鎮まっていくプロセスとも連動していると。
ここからしばらく、チェさんならではの展開で日本の古語やギリシャ語、ドイツ語などの類語の紹介連鎖が飛び石のように続いたが、総合するに、法に触れるとは、深淵へと身を鎮めていった末に到来する境地なんだ、という話であったように思う。「下なるものに支えられているにも関わらず、生きてる内にどうにも浮ついてしまうのがこの世なんだ」という言い回しは特に気に入った。人は世に出ようと、上へ上へとますます浮ついていき、人に囲まれるかも知れないが、そういう人間がどれだけ真実に背いているか、と白隠は説く。
以下、『夜船閑話』から引用。
「養生は国を守るが如し」、「明君聖主は常に心を下に専らにし、暗君庸主は常に心を上にほしいままにす」、「人身もまた然り、道を究めてその極みに達した者(至人)は、常に心気を下に充たす」、「荘子が「真人は踵で息をするが、普通の者は喉(のど)で息をする」と言うのはこのことである」。
「(易で)五陰が上にあり一陽が下にある卦を地雷復という。これは冬至の候である。真人は踵で息をするおいうところを表したものである」「下に三陽、上に三陰のあるのが地天泰といって正月の候である。自然がこの候を得るならば万物は発生の気を含み、百花は春のめぐみをうける。至人が元気を下に充実するところの象である。人がこれを得るならば、気血の循環は充実し、気力勇壮となる。」「五陰が下に一陽が上に止まるのが山地剥で、九月の侯である。自然がこの気象を得るならば、林の木々は枯れ百花もしぼみ落ちる。これは、凡庸の者は喉で息をするというところを表しており、この象を得るならば、身体は衰え、歯も抜け落ちる」など。
出世して世に浮ぼう浮ぼうと人はするけれど、「満足」という言葉を表す漢字に象徴されるよう、心気が下へ満ちることがいかに大事であるかという今日のチェさんの話、個人的には、芭蕉の「閑さや岩にしみいる蝉の声」という句や、アフリカのシャーマニズムの伝統においても感覚は五感ではなく「12感覚」とされていること、ホロスコープのMCとICのことなどを思い出し、結びつけながら聞いていた。それにしても易は息の極意にも通じるのか、と改めてハッとさせられた。
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1月26日(火)
夜、奈加野で田中さんと石川さんと飲み。深夜ラクさんと合流。アジの骨を揚げたやつが美味しいぞと思ったら元気が湧いたが、いま自分の骨を揚げてもあんまり美味しくなさそうだなと考えていたら最後かなり酔っ払った。
1月27日(水)
夜、渋谷アルカノンさん主催のバカヴァッド・ギーターの勉強会へ。3回目。アートマンとブラフマンの合一についての話。なかなか理解するのが難しいところだと思う。
個として在ることにこだわり過ぎてしまうと、人はどうしても誤ったエネルギーの使い方をするようになってしまうけれど、ちょうど波の一つ一つと海がつながっており、海から色々なエネルギーが突き上がって、それが風とぶつかりあって波ができていることに気がつけると、もっとスムーズになっていく。この波と海のたとえ話は確かに美しい比喩だし、どこか射手座2度のサビアンシンボル「白波に覆われた大海」のビジョンを連想させる。
「ダルマ(法)に触れる」とは、波が海とつながり、風を受けているように、「求められていることに気付き、受け止め、応えていくこと」という話もあり、月曜のチェさんの話とシームレスな繋がりに喜びが湧く。ちなみに古代インドのヴェーダ思想では、「下へとおのれを鎮める」とは「瞑想する」という実践へと直接結びついていく。
では瞑想とは一体何をしているんだろうか。昨年春のヴィパッサナーの瞑想合宿で一番よく言われたのは、「Observe objectlyただ観察しなさい」ということだった。今日の話でいえば、観察者としてのアートマンに即しなさいだし、グルジェフのいう「ダブル・アテンション」、すなわち、対象を見ている視線と、見ている自分を見ている視線の同時敢行をせよ、でもいい。そうしていると、波であると同時に海であるところの感覚=鎮まりが深まっていく。ちょうど電子や光が粒子であると同時に波動であり、観測前は波動として空間中に広がっているのに、観測すると波動がちぢれて粒子としての姿を表しては、それがやがて再び波動となって海へとかき消えていくのを繰り返すうち、賢治の言うような「わたくしといふ現象」としての「仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明」が浮かびあがるように。
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1月28日(木)
ここのところ、目が醒めたら最初に猫の気配を探すのがすっかり習慣になった。まず枕元の近くから、そして次第に室内に注意を広げていく。布団から出るのが億劫な冬は、猫のぬくもりが有り難い。布団を出て猫と顔をつきあわせ、それからその日のことを考える。何をするんだったっけ、今日は……。先週末に、朝日カルチャーセンターでのサビアン占星術講座と、ラクシュミーさんコラボでの参加者と2016年を占う講座をやって以来、今週は毎日そんな感じだ。
今日は近くの林試の森公園を5キロほどランニングした後、本読みながら風呂に入って、猫の世話をして、喫茶店で作業。夜は急きょ鏡さんのアカデメイアの「魔術と占星術」に関する新講座を見学に行くことになった。田中さんも来るのだと聞いた。
そういえば講座にいく前、鑑定書の書き出しを考えていて、ふと自分の出生図に重ねた土星のトランジットの動きを再確認してみようと思った。今年6月にちょうどDSCを超える一度手前まできて土星は逆行。最終調整に入り、改めてDSCを超えるのは11月終わり。
ロバート・ハンドの言葉を借りれば、それは大学1年生の春に土星がASCを通過して以来14年間のプロセスのひとつの「到達点」であり、「これまでの結果として自分には何ができて何ができないのか、自分は何であって何ではないのか、そういったおのれの再定義を、自分なりの言葉でしていくことということであり、その出来に応じて周囲から再評価されていくことになるのかも知れない」。秋までにどう固めてくれようか。おのれ。
1月29日(金)
午後から神保町の事務所で鑑定。2時間弱くらい話をして、「ちゃんと占星術の鑑定してもらうの初めてだったんだけど、落語みたいだよね」という指摘をいただいた。息の芸術。まだ道は遠い。それで今年は意味から離れ、ただなんとなくいい声を出せるようになりたい、声の幅を広げたいなど考える。それから帰り際にデヴィッド・ボーイの死後を人々がどう生きるか?ということへの私的な霊感話を聞いて、土星海王星みたいな話だなと受け止める。この反応の仕方、ややワンパターン気味かも。
夜、バランガン時代の生徒さん達と新年会。壁に水槽があったり、いかにも陳腐な合コンが夜な夜な行われていそうな内装だったけど、料理は意外とおいしくて侮れない。面子が面子なため、とりあえず3回くらい息が苦しくなるほど笑った。今日が「息」がキーワードだったかな。ちとせ会館の7階。
1月30日(土)
朝から晩まで労働。途中、女子プロレスの里村芽衣子を皮切りに、豊田真奈美、ライオネス飛鳥、北斗晶、ブル中野、ダンプ松本、ミミ萩原などの動画をYoutubeで探して見ていた。強い選手というのは、まるで一つ一つ道をふさいでいくように相手の技を受けきっていくし、瞬間的に展開を切り替えるのが上手だ。場を支配するとはどういうことなのか、プロレスを見ているとヒントをもらえるような気がする。
1月31日(日)
夕方、ドトールで作業。ここ1,2週間、ドトールの窓際の席が気に入って、何度か座っている。近くのコメダ珈琲は感覚が鈍るようで余計にボーっとしてしまうし、ジョナサンもダメ、ドトールのここがちょうどいい。この「ちょうどいい」という感覚は、おそらく「よりアウトプットが出そう」という感じであって、快適なソファーであるかとか、静かで座席の感覚が適度に広いとか、そういうことではないように思う。むしろ2つ隣りの席の会話がたまに聞こえるくらい雑然としていたり、椅子が固かったり、サンドイッチが美味しすぎない方が、本を読んだり作業したりするのには「ちょうどいい」。
夜、借りておいた『ロミオの青い空』の続きを見る。根が明るいっていうのは、なぜだか不思議に自分自身で満ち足りているということなんだ、という多分どこかで聞いたか言われた言葉がよみがえった。それが上品ってことでもあるし、太陽を生きるってことなのかなと考えてみて、腑に落ちた。逆にいえば、根が暗いっていうのは、誰かに認めてもらわないと、なにか意味のあることをしないと、満たされないということで、それが強引であればあるほど下品に映るのかも知れない。
働くことを問い直すために
6月7月と2回にわけて、仕事と占星術についてのワークショップを都内で行うことになりました。
http://www.arcanumseminars.com/sugar-work#PCuDne0.twitter_tweet_count_m
まず、仕事の意味や、働くことの意味ということで、私たちが考えるものが二つあります。
ひとつは、人のために役に立つというということ。
もうひとつは、「自己実現」できるということ。
前者はいつの時代にも言われてきたことであり、後者は近年とくに言われていることですが、
そのどちらもが見えにくく、実感しにくくなっているのが今の社会の現状だと思います。
それはたとえば、自分の「労働」がいきつく宛先とはつまりどこの誰なのか?
自己自己というが結局それも、他の誰かのおかげで成り立っているに過ぎず、
そうした「おかげ」は社会の複雑なネットワークのどこにどのように位置づけられるのか?
といった問いに答えることのむずかしさに通底しているように感じます。
かつて柳田國男は近代に入り貧困が消えるにしたがい「孤立貧」の時代がくるとして、
「われわれは公民として病みかつ貧しい」という言葉で『明治大正史世相篇』を結びましたが、
現代においても、人は過剰なまでに分断され孤立しています。
しかしだからと言って、昭和の右肩上がりの時代のように、
家族や地域、会社内の人間関係など固定された枠内でのコミュニティーや縁を、
ふたたび強固に復活させるのもまた難しい、という状況にいま私たちは立たされている。
そうした、希望の仕事に就く機会や、誰かに必要とされる感覚が、
自然に、あるいは直接的に与えられることの難しい時代に、自分は何をどうしたらいいのか。
そうした今という時代の発する問いに添いながら、
希望や機会、感覚を、ただ遂げるか潰えるか、あるかなしかの二者択一に追い込むのでなく、
人生の節目においてその都度修正し、編みなおしていく“すべ”の一つとして、
占星術をどう活用していけるか、何をどう語りうるのか、そこで働くことの意味をいかに掴みなおせるのかを、
実際の文脈を踏まえつつ、参加者の方と一緒に考えていきたいと思います。
3月の雑感
3/8、豊洲で開催された「COLO CUP Vol.6〜東日本大震災の復興と防災〜」でワンコイン占いをしてきました。収益は全額、COLO CUPが支援している防災や復興関連の団体への寄付にまわります。今回は10人くらいの人を占えたかな。
“自分のポジショニングを意識する・動きの意味を考える・それを声をだして周囲に伝える・失敗を怖がらない”
これらの事を、参加者と一緒に考え、実践するということ。言葉にすればそれだけのことだけれど、なんだか新鮮でした。
それから3/20から三日間、占星術上の新年である春分をはさんで、大阪で毎日講座や鑑定をしていて、その中で改めて占星術という行為を、安全保障や経済の在り方ということと結びつけて考えてみたいという思いが出てきました。もちろんそれは社会や国際情勢をトータルに見ていく大きな切り口ではなくて、もっと小さな切り口で。
つまり社会というものを構成している担い手の手元や足元、あるいはそこから見上げた夜空=自然の見え方や実感、それらの充実を見て行きたいんです。その一見すると小さな切り口から、閉塞した行き詰まりの中で適切な価値観を発見しにくくなっている社会を大きく動かす何かが見えてきそうな、どうもそんな予感がしています。
写真は烏丸の路上と、牡牛座の三日月と金星。
本日3月24日の夕方から4月4日まで、京都の山奥にあるヴィパッサナー瞑想センターで10日間瞑想してきます。連絡は一切できなくなります。
どうなるか分かりませんが、帰ってきたら、自分の道筋や家計のやり繰り、つながっていく共同体の在り方について、もう一度ゼロから考えていくつもりです。
シンネンを占う
年末まで、忘れっぽい自分のために、整理もかねて今後について思うことをつらつらと書いていこうと思う。
『ゴットファーザー』にみる土星と冥王星
12月13日に朝日カルチャーセンターで「2015年を占う」という講座をやらせてもらってから、無性に『ゴッドファーザー』が見たくなって、先日やっとシリーズ3作すべてを見返すことができた。ビトーからマイケルへ、そしてマイケルからヴィンセントへ、コルレオーネファミリーの時系列を行きつ戻りつする映像を追いながら、マイケルの、そして一つのファミリーの崩壊と時代の移り変わり、そのかなしみの歴史を見届けていくうち、胸中にひとつの感慨が生じてきた。それは映画の中の彼らから立ち昇ってくるかなしみが、今の時代が醸している雰囲気にそのまま通じており、とくにここ2年間にわたる土星と冥王星の交錯をじつに鮮やかに映し出してくれている、という思いだ。
いよいよ2014年12月24日に土星が蠍座から射手座へ移り、2012年10月ぶりにイングレス(星座移行)を迎える。約2年間にわたる蠍座土星期は、言わば「パンドラの箱のそばで腹の探りあいをしている」ような心象をもたらし、それは人の心の奥にある思いや、深みに沈んでる感情を抉り出してきた。そして次の射手座土星期は、さんざん露わにされた一群の本音や感情を前に呆然としつつ、「自分が歩んできた道のこれまでとこれから、その両者を照らし出してくれる光は果たしてあるのだろうか?」という疑念へと焦点が移っていく。しかしそうした新たな局面(そして来たる2015年)を見ていく前に、数年前より山羊座にある冥王星と蠍座土星とのミューチャルレセプション(互いの支配星の交換)による、身動きの取れない睨み合いと絶え間ない浸食の終焉について、まずはきちんと見極めておかなければならないだろう。これまでと何が変わって、何が変わらないのか。何が消え、何が今後に残っていくのかを。
例えばアラン・レオは蠍座の土星について「力への愛」と特徴づけ、この配置は人の心の中で、敵対するものへの嫌悪の情に焦点を当て、次第にその情に縛りつけられていく傾向性を意味する、と述べている。敵か味方か、相手は本当に信用できるのか、そうした二分法に追いつめられるとき、人は絆の僅かな綻びにも鋭く反応するようになり、特に近しい者から裏切られることには深い怒りを覚え、苛烈な報復も辞さなくなるものだ。
レオは、人生において最も危険なものは二つ、「プライドと嫉妬」であり、よき生を送るにはそれらに集中することをなるべく避けなければならないとも述べているが、人がその二つの情念を完全に断ち切ることはほとんど不可能だろう。女であれ男であれ、人は多少なりと自己への誇大感を抱く一方で、人を羨む気持ちを持つものだし、それは他人と自分が異なる個性をもって同じ世に生きざるを得ないという前提で生きている限り、無限に生成され続ける情念と言える(ただし男と女では嫉妬と言ってもその質は異なるのではないか。個人的には男の嫉妬の方が、より「才能」に対する嫉妬の意味あいが強いように感じる)。
それゆえ、力への愛は人を死へと追いやる。『ゴットファーザー』も、あまりに無残に、登場人物が次々と死んでいく映画だった。最初はほのかな嫉妬心や、自己愛のうずきに過ぎなかったものが、資本主義原理で回る時代の波やそこでたき付けられた欲望と結びつけられていくことによって、膨れ上がっては暴発する、そして二度と元には戻れない、そんな光景が繰り返し、執拗に描かれている。それでも、2000年以上にわたりシチリア島で醸成された「虐げられたものの横のつながり」がまだかろうじて機能していた一代目のビトーの代においては、死とはまず「不当に搾取する傲慢な権力者」=敵の死を意味していた。そこでは「殺し」は「社会が押し付けてくる縦割りの秩序(という欺瞞)」に左右されない隣人(仲間や家族)との横の絆を深めるため、という名目のもとで正当化され、弱者の結束と連帯の上に成立する濃密な関係空間は「お互いが掟を守ること」で維持されていた。ただ、同じ仲間や家族といっても、関係空間の規模が大きくなって(関係性の濃密さが薄められ密度にばらつきが出て)くると、どうしても持てる者と持たざる者の差が出てきてしまうし、「同じ(弱者)であるはずなのに」という気持ちが働く分だけ、それは余計に「プライドと嫉妬心」を暗く煽ってしまう。結果として、そこから決定的な<感情の劣化>が起きてくる。
『ゴットファーザー』という映画も、基本的には、二代目のマイケルへと代が移り、「隣人の掟」が互いを尊重しあう信頼関係によってではなく、功利的な損得勘定や経済原理によって支配され始めることで、それまで関係空間の濃密さを維持していた掟そのものが劣化し、破綻していく様を描いている映画だ。蠍座には現象の背後に必ずその本質を担う裏の実体を見出そうとする性質があるが、それはファミリーを束ねるドンに必須の資質であると同時に、本来他の何よりも仲間や家族とのつながりを必要とし、そこに救いを求める心性から生じてくる傾向なのだとも言える(シチリアで育ったビトーは9歳で家族のすべてを殺され、逃げるように移り住んだ新天地アメリカで新たな家族を作った)。だからこそ、救いを求めて絆をたぐり寄せた先に、自分とは異質なカネの匂いや怜悧な計算を感じた心というのは、おのれ(感情)を歪ませ、次第に力への愛を権力への狂気へと変貌させてしまう。
そうして、そもそも絆の確認であり、弱者を救う紐帯の役割も果たしていた力への愛(蠍座土星)は、本来その敵であったはずの「不当に搾取する、傲慢な権力者(山羊座冥王星)」へとなりかわり、ついに最愛の家族からも忌み恐れられる存在となってしまうという悲劇を生んだ。それは家族や仲間、その紐帯を守るため、合法的なビジネスへの転換というマフィアとしての在り方や業界構造そのものの在り方を変えんとする「毒薬(冥王星)」を飲み込んだものが、信用のハードルを上げるだけでなく信用できないものは容赦なく切り捨てよ、という「抗えない要求」を受け入れた結果迎えた必然だったとも言える。しかしそれでも、このもっとも力強く仲間や家族を守ろうとした者が、もっとも仲間や家族から忌み恐れられる存在となるという物語は、明らかに、人生における苦悩の役割について考えさせられるものだろう。禅宗の開祖とされる達磨は「人が業(カルマ)をつくるのだ。業が人をつくるのではない。」と書き残したが、では人は誰かを責めてはいけないのか。許すことだけが正しい選択肢なのか。振りあげたこぶしを誰かに振り下ろすのは罪であり、罰を受けなければいけないのか。責めざるを得なかった瞬間や、怒りで我を忘れそうになった時。多くの人はそうしたふとしたタイミング、けれど感情の劣化へ一気に傾いていく分水嶺でもある時というものを、そうであると気付かぬうちに夢中で通過していき、その事実に後になってから気がついていく。ただ、その時大抵の人はこうつぶやくだろう。「他にどうすればよかったと言うのか」(マイケルにとってのそうした分水嶺は、おそらく弱く気優しい次兄・フレドの裏切りに対する報復を決行したそのときであり、それが最晩年まで決して消えることのない彼の苦悩を決定的なものにした)。
『ゴットファーザー』という長い長い物語も、最終的には「なぜ私にこんなことが起こっているのか?」「どうしてこんなことになってしまったのか?」「いつになったらここから抜けだせるのか?」「もっと別の生き方、違った結末があったのでは……」こうした問いに対して意味のある答えを求める“一切の”試みの挫折へと収斂されていくように思う。これも、光の届かない意識の深層に隠された意志を司り、まるでブラックホールのようにすべての光を吸い込んでいく冥王星の作用なのかも知れない。
「反応」と「応答」の違い
では近年の日本に舞台を戻して考えてみたとき、突きつけられた「抗えない要求」とは何だろうか?あるいはそれと交錯するように、この2年間の蠍座土星期で顕著に表れてきた心の歪みや感情の劣化はあるだろうか?後者から考えてみると、「ヘイトスピーチ」は(言葉自体は以前から存在していたものの)、日本では2012年の日韓関係の悪化に伴い、この2年間で一気に顕在化してきた感情の劣化をしめす象徴的現象と言えるだろう。
とくに歴史認識問題をめぐって、日本は韓国・中国を中心に(アメリカもだが)歴史修正主義を指摘され、そうした状況に対する「反応(リアクション)」として、ヘイトスピーチが展開されてきているように思う。これは自国の近現代史を熟知した上での対応というより、しっかりと納得していない状態で、断続的に強い糾弾や非難を浴び、謝罪を要求され続けたために起きた半ば生理的反応であり、それはやはり「上っ面の反省」に終始してきた、戦後日本人の歴史の忘却と無知に起因しているように思える。この点についてたとえば中島岳志氏は「アジア主義は確かに帝国主義化しました。「王道」は「覇道」へとスライドし、「連帯」は「侵略」へと転化しました。」と自著(『アジア主義』p454)の中で述べているが、これはまさにかつて近代日本が歩んだ土星蠍座と山羊座冥王星の交錯の歩みであり、そのことについて日本人はちょうど晩年のマイケルのように向き合うべき時が来ているのかも知れない。だとすれば、まず考えるべきは現に進行しているヘイトスピーチという「逆ギレ的(中島)」なリアクションでいいのか?ということだ。
ちょうど今年2014年の春分図は、国民の態度や世論を表すASCに冥王星が乗っており、以前ここでもこの冥王星は怨みの発動や、劣等感や屈辱感の補償として表れるのではないか、という趣旨の記事を書いた(→★)。そこでは、ロバート・ハンドの「自分自身に触れろ!」という言葉に依拠しつつ、そうした急激な<感情の劣化>を鎮めるには「意識の上ではすっかり無かったことになっている過去の鬱憤や忘れている記憶に光を当て、そこにある受け入れがたい“邪悪(ねじ曲がり)”や“弱さ”と対面」することが大切だろうという指摘をするに留まったが、排外主義的なデモや差別発言がおおっぴらに繰り広げられ、反知性主義の時代に突入したかのような昨今の潮流を肌で感じるだに、この感情の劣化という事態を深刻に受け取らざるを得ない。連帯が侵略に転化せず、王道が覇道へとスライドしたのはなぜだったのか、そしてかつての歩みを踏まえてこれからどんなふうに歩んでいくべきなのか、こうした問いは、土星が蠍座から射手座へ移ってもまだ当分は残されたままだろう。
「業(カルマ)」という言葉はもともと“行為”を意味するが、仏教の考え方によれば行為には2種類あるように思える。たとえば誰かに侮辱されたとき、過去を思い出しつつ反応し、怒り出す。これは先のヘイトスピーチのような「反応(リアクション)」であり、どうやらこの反応がカルマと呼ばれる行動のようだ。つまり、行為するものを束縛する鎖であり、自らを状況の奴隷や犠牲者にしてしまう類の行為。それと全面的に異なっているのが「応答(レスポンス)」だ。
和尚の『ボーディダルマ』から引用しよう、「彼はなんらかの発言をしている……賞賛なのか非難なのか、それは現瞬間の問題ではない。あなたは即座に反応せず、まず相手に耳を傾ける。あなたは自分の意識が、なんであれ相手の言っていること、やっていることを鏡のように映し出すのを許す。この鏡のような、即座の、現瞬間の意識、過去の経験からやって来たものではない意識から、なんらかの応答がやってくる。」
つまり応答(レスポンス)とは、相手に評価を下すのでも、過去の鬱憤を晴らすのでも、それらに自分を束縛させるのでもない行為のことで、おそらくは、心の動きがきわめてシンプルなものになっていく中で(あるいはそうした習慣の中で)、一瞬の閃光として現れてくるようなものなのだろう。「鏡のように映し出す」とあるが、鏡の反射は、そこに光がなければ不可能だ。相手の中に、かすかでも光を見出すということ、あるいは見出せなければ何も映し出さないということ。そのための十分な静謐や余白を用意すること。そしてそんな「応答」を、他の誰かだけでなく自分自身に対してもしていくこと。自らの内の「邪悪」や「弱さ」と対していくには、このような応答的振る舞いの所作が必要なのだと思う。
射手座土星について、リズ・グリーンは『サターン』の中で「自らの辛い体験を通じて、他者による人生や正義についての解釈を信じているだけでは不十分であることに気づく」のだと書いているが、それは自らの行為や、これまでの生き方を肯定している信念の否定を意味すると同時に、自分が必要とする光(信念)は自分で発見しなければならないということを意味する。自らの掲げる正義や価値に何らかの疑念が差し向けられ、それらの否定へ向かい始めたとき、その先の未来の違いをつくり出すのは、例えばそこで「反応」に終始するのか、一度でも「応答」を差し挟む契機を持てるかだろう。
芭蕉、ハイデガー、占星術
先日の古典勉強会で、チェトンミンさんは、書かれたテキストをコントロールしようとするのが作家論や作品論の立場とするならば、意味論や読者反応論は、テキストと向き合い、テキストそれ自体の(こちら側への)開かれを聴きとろうとする立場だ、と言っていた。自分がやろうとしているのは後者なのだと。
それは言葉というものをどう捉えるか、という問題でもある。川や星空など自然をみたとき、そこに自らの真実や人間的心情を見出し、あくまで自分自身を表すための道具として言葉を捉える(人間中心主義への自己完結)のか。あるいは、言葉そのものが人間に語りかけてくるようにさせ、それを聴き取ろうとするのか。
個人的には、まったく同じ問題が、占星術においても存在するように思う。古代バビロニアにおいて、天文現象は「神の書きつけた文字(音や字の並び、魔法)」であり、それと対する行為は一種の宗教的実践のようなものだった。その一方で、ギリシャ以降、天文現象の中に規則性や秩序を明確に見出すようになり、機械的宇宙モデルとともに決定論的な占星術の伝統が築かれていった。こちらを合理主義的占星術とすれば、神々と語らうかのような古代型の占星術をアニミズム的占星術と言ってしまっていいだろう。
十数年前に出た、鏡リュウジさんの『心理占星術への招待』という本にちょうど下のようなイラストが載っていた(今手元にないのでうろ覚え)けれど、これも合理主義的占星術とアニミズム的占星術の比較、すなわちテキストへの向き合い方の典型的対比を示してくれている一例と言える。
五月雨を あつめて早し 最上川
例えば芭蕉が山形で詠んだ上の句はどう解釈できるだろうか。月日の速さやその実感に込められた憂いや感慨、という風にも取れる。雨という点の集合が、川という線となり、やがて海という面へと流れ込んでは消えていく。どんな人でも納得のいく、人生についての分かりやすい説明のような句。それが言いたいがために、最上川や五月雨をうまく、有効に「使用」した句。
確かに、雨が降らなければ川は流れていかないし、川は海へと接続している。けれど、この句が語っているのは果たしてそれだけのことだろうか?線としての最上川とはどこか青白い顔をして、過去から未来へ一直線に、まるで金太郎飴のように引き伸ばされた時間のようだ。それは解釈するこちら側に半ば強引に引きつけられて成立している一解釈に過ぎないとは言えないだろうか。あるいは、こちらからは見えていない死角や別の顔(素顔)があるのではないか。
川が海へとつながっているのは誰もが知る常識ではある。けれど、この句でまず初めに登場してくるのは雨だ。反対に、海は直接言葉として詠まれてはいない。その登場していない海を、川の彼方へ置こうとするのはあくまでこちら側の勝手であり、因果論に慣れた近代人最大の思考癖と言ってしまっていいだろう。でが結果ではなく、起源の方に目を向ければどうか。海とつながっているのはむしろ雨であり、それはいつでも目の前で降り続けている。雨は雲より生じて地上に川を作る。陸地と海は相互に作用しあい、その全体の循環が、雨として刻一刻とこの場に現前している。川と違って、雲はたくさんの人に共有されている固有の名前もついていなければ、捕まえることもできないけれど、だからこそ雲は海に近く、雨は両者を結びつけているのだとも言える。だとすれば、この句の語っているのはそれらのつながりだろうか。全体の循環の中で唯一名前のつく「川」は、目に見えて「早く」雨と海を結び、現在を死へと運ぶように見えるけれど、逆に「目」で捉えようというモードから離れられれば、雨はいつでも空とつながり、海ともつながっている。ここには明らかにリニアな線的時間とは異なる、循環的な時間がある。そしてそれはいくら遡っても、決して遡りきれない無始点の過去から、常にすでにふり続けてきた五月雨の中にまぎれこんでいる。
チェさんは、この句の語るところについて耳を傾けるためか(あるいはある種の遊戯としてか)、ここでハイデガーの『存在と時間(細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫)』の一節(第七十九節 現存在の時間性と時間の配慮、下巻p366〜)をこの大著を象徴するエッセンスの一つとして引用してくれた。
「現存在は、おのれの存在においてこの存在そのものに関わらされている存在者として実存している。現存在は、本質上おのれ自身に先立っているので、あらためて自己を考察するというようなこと以前に、すでにおのれの存在可能へむかって自己を投企している。そしてこの投企のなかで、それは投げられているものとしてあらわになっている。」
現存在Da-seinとは、いわば「雨」だ。雨粒の一滴一滴が見えている状態の意識と言ってもいいかも知れない。未文化な主語のまま、「おのれ」を超えた自分に開かれているわたし。それは「おのれ」という自覚が芽生える以前からふり続けてきた。だからそんなわたしは、川へ、現実へ、そして未来へと、つねに否応なく投げ込まれるようにして存在し、固有名詞をもった主体として顕現することができている、と。大事なのはこの後の箇所だ。少し長いけれど引用する。
「(中略)…われわれはまえに、本来的実存と非本来的実存とを、それぞれをもとづける時間性の時熟様態という観点から性格づけておいた。それによると、非本来的実存の無覚悟性は、不予期的=忘却的な現持の様態において時熟するものである。無覚悟な人は、かような現持のなかで出会ってこもごも殺到してくる手近かな出来事や偶発事件をもとにしておのれを了解している。あわただしく仕事におのれを紛らわせながら、無覚悟の人はその仕事に自分の時間を奪われている。彼の特徴になっている<私は時間がなくて>という話し方は、そこから来るのである。
非本来的に実存する人がたえず時を失っていていつになっても時間がないのに対して、本来的実存の時間性の特徴は、覚悟性において決して時間を失わず、<常にゆとりを持つ>ことにある。けだし、覚悟性の時間性は、その現在についていうと、瞬視という性格を帯びている。それが状況を本来的に現持するとき、その現持はみずから主導性をにぎるのではなく、むしろ既往的将来のうちに抱かれている。瞬視的実存は、本来的な歴史的な自立性という意味において、運命的に全き伸張性として時熟する。
このように時間的な実存は、状況がそれに要求するものにそなえて、<常住に>時間を用意している。ところが覚悟性は<現>をこの形でいつもただ状況として開示するものなのである。それゆえに、覚悟のある人にとっては、開示されたものごとは、彼がそれに接して無覚悟のうちに彼の時間をうばわれるというような形で出会うことが決してないのである。」
時熟などややこしい言い回しはあるけれど、「無覚悟な人/そうでない人」とは、「閉ざされた人/開かれた人」と言い換えていいだろう(byチェさん)。「不予期的=忘却的な現持の様態」とはまさに「最上川」であり、そういう形で<時>が実現する(時熟)様子が「あつめて早し」。そうやって川に没頭し捕らわれるように生きている状態が、ある意味ごく一般的でノーマルな日常の過ごし方でもある。例えばそれは「もう1年も終わりかー、ほんと早いよねぇ」なんて忘年会で言い合ってる時の「われわれ」であり、エンデの『モモ』に出てくる、気付かないうちに時間泥棒に時間を盗まれている人々のこととも言える。そういう状態の「われわれ」は総じて忙しく、時間がない。そういう自分と、「既住的将来のうちに抱かれている」即ち「自分で生きているのではなく、生かされている」自分というのは、同じ人間であってもまったく異なる地平に立っている。どうしたら、その隔たりをひょいと越えられるだろうか。最上川へと注がれそこに没頭している目を、その眺めを、変えることができるのか。
もうこれ以上、ここで逐一下手くそな書き下しを試みるのはやめておきたい。ただ、芭蕉にしろ、ハイデガーにしろ、共通して言えるであろうことは、機械論的決定論の立場ではない、何が起きるか分からない現実へ人間が介入していくそれなりの余地や仕方があるという(占星術上の)立場を、深く基礎付けることができる、隔たりを越えた"経験"を豊富に持っていたということ。『存在と時間』も、『おくのほそ道』も、そんな経験に裏打ちされつつテキストが織り出されていったが故に、歴史に残る傑作なのだ。
例えばルディアがその思想の核心部分について語る言葉は、より味わい深く、完璧な形で時おり芭蕉の中に見出すことができるように思う。深い意味の味。それは存在の味に違いない。
「every moment is the synthesis of all past moments and the source of all future moments.」(Dane Rudhyar、『Personality of Astrology』、1936)
(刻一刻と刻まれている<時>は、過去すべての来歴、そしてすべての未来の出どころとつねに共にある。)拙訳「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。」(松尾芭蕉、『おくのほそ道』、1702)
(the months and days are the travellers of eternity.the years that come and go are also voyagers.)ドナルド・キーン訳
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虫と水に自分を重ねてみる
チェさんの古典勉強会(「おくのほそ道」)、10月27日の記録と省察。
十五夜に生まれたとされる芭蕉は、月を見るのが好きだったそうだ。
そんな芭蕉が月にちなんで詠んだ句に次のようなものがある。
「夜ひそかに 虫は月下の 栗を穿つ」
しんとした夜の空気の中、幻想的な月に照らされた栗へと意識の焦点がしぼられ、その栗が小さな虫に食べられる音さえ聞こえてきそうな句だが、「私たちは虫のように栗に閉じ込められている」とチェさんは言っていた。
いのちがありありと、明々白々に感じられる月下にて、閉じ込められた虫は栗をうがつ。ひそかに(孤独に)。夜も(昼も)。
この「穿つ(うがつ)」という言葉は、「窺う(うかがう)」という言葉ともつながっている。「うかがう」とは「問う」の謙譲語であり、それは自分より目上の、あるいはより大きな存在を穿って、さらにそこから何かを出させる動作のことをいう。確かに、人間は古来より神仏にご託宣をうかがい、占いをして結果を求める=自身の存在の在りかや行方を問う、ということに親しんできた。
虫は自力で栗に入る訳ではなく、栗の実が若いうちに卵を産み付けられることで実の内に入り、そこで生が始まる。そして、殻の外へと出ていかななければ、羽化もできず、決して蝶にはなれない。精神分析学者ラカンの鏡像段階論によれば、幼児には自分が一個の個体であるという自覚がなく、成長して鏡に映った像を取り入れることによって、はじめて自分が統一体であることに気付いていく。そして、そうした自覚なき生後6ヶ月から18ヶ月の期間は、自分の身体の統一性を“想像的”に先取りすることでなんとか我がものとしている。チェさんは、いわば人間が卵を産み付けられるのがこの期間だと言っていた。
やがて卵はかえり、人は発心(ほっしん)して人を尋ね、問いを重ね、あるいは自分を欲していく。あらゆる欲はこの自分を欲する欲の変じたものに他ならないとも言えるけれど、同時に人は往々にして先取りした想像(先入観や恣意的な思惑)にとらわれ、実を食べて欲を満たすことばかりに気をとられる。そうやって次第に、殻を破り月下の世界に出て、自らを照らすリアルに触れえる可能性さえも忘れてしまう。
正直、ラカンの思想は難解で自分にはよく分からなかったが、チェさんがもう一つの句を挙げてくれたおかげで、次第に言わんとしていることの輪郭がつかめてきた。
「五月雨や 集めて早し 最上川」
チェさんはこの句について、「宇宙的なエネルギーの在りようをずばり述べている」と言っていた。この最上川は地理的には、出羽国最大の河川(山形県の面積のじつに75%にあたる)であり日本三大急流の一つだけれど、象徴的にはそうではない。ここでの“川”とは、言葉を通して作り出された意味の集合であり、「成功」や「幸せ」、「一人前」、「勝ち組」といった概念や、それに付随し想像されているイメージの数々(シニフィエ)を指している。一方、川と対比されている五月雨の“雨”は、常にふり続けている一瞬一瞬の現在であり、生成される意味の表れや書くということ(シニフィアン)に通じている。チェさんは「この川をのぞいて、そこにすっかりはまり込んでしまうことをナルシスと言う」という話をしていたけれど、そこで自己愛という言葉を使わないところは流石だと思った。これはつまり、先ほどの想像的先取りの中で夢見ている状態に留まっていることを指しており、「集めて早し」とはそうしている間に、月日がどんどん経過していくことの表現とも取れる。
ただし川というのはよく見ていると日に日にその表情を変える。かさが増していき、時に氾濫することもあれば、どんどん乾渇して干からびてしまうこともある。その様はたとえば呼吸の乱れへ重ねられるように思う。吸いすぎて過呼吸となりパニックを引き起こすこともあれば、息継ぎが追いつかず息が切れて(吐きすぎて)へたれこんでしまうこともあるように(自分の見ている占いのお客さんは後者の方が多いように感じる)。いずれにしろ、一息、一息、自分に合った、あるいは状況に合わせた自然な呼吸の仕方を忘れてしまった結果として、乱れは起きている。ただし乱れきってしまえば、それも一つのきっかけになるかも知れない。こうした川と雨の対比からどんな構図や運動がくみ取れるだろうか。
芭蕉という人は“言われていないもの”を詠む名手でもあったそうなので、何が暗にほのめかされているか?という視点から句を眺めてみると、点としての雨、線としての川を補完するものとして、面としての海に思いあたる。おそらくこの“海”こそ、先の虫の句に描かれた月の光に照らされた世界であり、それは超越的な次元でリアルが開示される何らかの場、時間を超えた世界だろう(キリスト教なら「審判の日」だろうか)。繰り返すが、そんな海を、通常人は直接感じたり見たりすることは決してできない。ただただ、目の前には川が流れていて、ときたまはたと気が付くように、つねに降り続けている雨の存在に思い至るに過ぎない。けれど逆に言えば、川を消し去る最果てとして、あるいは雨の起源であり母胎として間接的に海を感じたり、思いを馳せることは可能だろう。血液が心臓を介して初めて全身を循環することができるように、海から始まり海へ帰ることを意識して初めて、水としての意識はすっかり循環することができる(仏教では「円成」と書いて、円満に仏の心を成就するという意味で使うそうだ。これもmakingwhole=癒しの一つのビジョンだろう)。
そうしてみると、意識をいかに捕らわれがちな川モードから軽やかな雨モードへと転換していくことができるか?というのが与えられた生を全うしていく上での一つの問題だということになる。そしてふりつづける雨のモーションを止め、ズームしてよくよく観察してみると、雨というのも勝手に降っている訳ではなくて、空気中のほこりや塵を介して、「しずく」が育って初めて雨となって地上に下りてくることができる。このちり芥の類、占星術にひきつけるならば、月より下のこの世のすべてを構成する四大元素(エレメント)としても考えられるだろう。
また、「ふる」という言葉も物理的な動きを表す「降る」であると同時に、場所の通過や時間の経過を指す「経る」でもあり、あるいはその両者から自由となっている、過去から残され未来に届けられる「古る」にも通じている。してみると、現に生き「ふりつづけている」しずくというのは、天と地、あちらとこちら、過去と未来を縦横に結びつけている紐(ひも)のようなものなのかも知れない。
ここまで考えて、「創造とは作品の目に見える表情の陰で作用する生成のことである。」というクレーの言葉をなんとなく思い出した。