西洋占星術入門講座@渋谷大人の学校(11月4日開講)

最近、ますます自分のやっていること=占星術が、よく分からない、
得体の知れないものになってきているように感じています。

考えてみれば、占星術の基本というのは、

ホロスコープ(空の見取り図)をつくり、地球を取り囲む宇宙を眺めること。
そこから逆に地球上のひとりの人間、彼/彼女の現実に起きていることを天体現象になぞらえること。
その見立て、物語り。視線の交錯。

なのだけれど、そこに時たま何かが宿ったり、反転したりするのを感じながら、
その"何か"というのがなんだか分からないような、よく知っているような。
いや、やっぱり分からない。でも……、というもどかしい感じ。

占星術家の星でユング派の分析家でもあるリズ・グリーンはこのもどかしさについて、
例えば以下のように触れています。

私がこれまでの分析仕事や(占星術の)クライアントにおいて観察してきたものは、運命とか神意、自然の法則、カルマ、あるいは無意識の表われ……と、
人によって呼び方はさまざまな"何か"だと言える。そしてその何かは、自身の領域を犯され、台無しにされるか、私たちがそれ相応の敬意を払わなかったり、
関係性における然るべき努力が実行されなかった際に、その度合いにふさわしい報復をしてくるのだ。
また、それはまるでその人が本質的に何を必要としているのかということのみならず、人生展開の中で今後何が必要となってくるのか、ということについても、
絶対的と言ってもいいくらいの「知恵」を持っているかのように思える。私は"それ"が何なのかということについて知ったかぶりをするつもりはないけれども、
しかし恥知らずにも私はそれを「運命」と呼んでおきたい。(Liz Green『Astrology of Fate』)

リズ・グリーンが恥知らずなら、僕はいったい何なんだ……という感じですが。
そこを悩んでいても少しも心がスッキリしないので、
やはり基本に立ち返って、さらにその基本の土台を確かめながら、
あらためて自分なりの占星術ということを一つ一つ考え抜いて実践していくしかないのか、
と、やっと思えてきたように思います。

さて、心機一転。本題は講座の告知でした。
今回、新しい学校さんで教えさせていただくことになりました。

占星術の連続講座は毎年開催しこれで6回目となるのですが、
今回の教室はプロジェクターも完備とのことなので、
図像や動画、音楽なんかも存分に使った、丁寧な講座にしていきたいと考えています。

一応、入門講座なので占星術初心者が対象なのですが、
だからこそ、自分自身ときちんと向き合いたいという方に来てほしいと願っています。
よろしくお願いします。

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西洋占星術入門(全10回)
11月4日開講
日時:毎月第1、第3 火曜日の14:00〜16:00
教室場所:渋谷大人の学校(渋谷駅から徒歩1分)
担当講師 SUGAR

西洋占星術は多様で神秘的な世界観を湛えているだけでなく、自分を深く見つめていくための実践手法でもあります。
だからこそ、知識や考え方だけ、あるいは「当てる」ためのテクニックだけといった、どちらか一方に偏ってしまうと、
それは片手落ちであり中途半端なまま終わってしまいます。

本講座は内容としては初心者向け(出生図の読み方まで)ですが、奇数回が講義メイン、偶数回が実習メインとなっており、
座学と実践を交互に繰り返していきながら、自分なりの西洋占星術を確立していく糸口をつかんでいただけるようになっています。

第1回:占星術って何?〜歴史と世界観〜
第2回:ホロスコープを作ってみよう
第3回:黄道十二宮(12星座)の世界
第4回:個性を読む〜太陽と月と地球〜
第5回:惑星と神々について
第6回:恋愛を読む
第7回:アスペクト人間性のパターン
第8回:相性を読む
第9回:ハウスと職業適性について
第10回:仕事を読む

料金及び日程の詳細&申し込みはこちら↓からお願いします。
http://shibuya-school.com/pg141.html

※今回キャンペーンにつき、11月2日までに申し込みいただいた場合は、
入学金20000円⇒5000円に割引きさせていただきます。
申し込みの際は、お手数書けますが、その旨を明記の上、メールくださいませ。

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『新プラトン主義と錬金術:神智学の起源をたずねて』

おとといアレクサンダー・ワイルダーの『新プラトン主義と錬金術』を読んでいたら、
プロティノスの師であるアンモニオス・サッカスと彼の弟子たち(「真理の愛好者」)
についてのこんな一説と出会った。

曰く、

かれらはときどき「類比学者」とも名づけられた。それはかれらに、あらゆる伝説、物語、神話、秘儀を、
類比・照応の法則ないしは原理によって解釈する習慣があり、外界で起きたと語られる出来事も
人間の魂の活動・経験を表現するとみなしたからである。

これまさに心理占星術の仕事そのものだろう。
占星術家よ、かくあれかし。

しかしこの本はKindleで買って、しばらく放置していたのだけど、
巻末に掲載されている訳者の堀江聡先生と元神智学協会会長の佐藤直継氏の対談だけでも一読の価値あり。
ヘーゲルと同時代の18世紀末の哲学史において、新プラトン派のことをアレクサンドリア派という呼び方で呼んでいた可能性がある、
とか、中村元先生の論文で華厳経プロティノスの思想を比較して、両者の類似性について触れているものがある、
など、なかなか素人では知りえない点にも指摘されていて非常にありがたい。

一読した後の印象としては、
ギリシャ、エジプト、メソポタミア、インドを地域的・思想的に包含するアレクサンドリアという都市と、
その特異な場所が育くんでいった知恵の体系としての新プラトン主義、そしてその大本としてのヘルメス哲学、
その深みと可能性について改めて目を開かされたような心持ちだ。
(著者の名前のように、アレクサンドリアをよりワイルドに捉え、新しい息吹が入れられたかのよう)

彼らの残していった神秘主義思想は、古代から地下水脈のように流れてきて、ルネサンスフィチーノや現代の例えば心理占星術にもその気配を感じ取ることができるし、
さらに自力的なプロティノスと他力的なイアンブリコス(あるいは楽観主義と悲観主義)といった対比的な構図も、わりと引き継がれているように感じた。

これを読んでからプロティノスの『エネアデス』や弟子のポルフィリオスのプロティノス伝を読むと、また違った印象を受けられるように思う。



新プラトン主義と錬金術: 神智学の起源をたずねて

新プラトン主義と錬金術: 神智学の起源をたずねて

10/22(水)「占星術×エレメント論」でワンデーセミナーを開催します。

急きょですが、10月22日(水)14〜16時、渋谷の大人の学校さんで占星術のワンデーセミナーをやります。
テーマは、「占星術へのアプローチとエレメントの再考」。
両者を重ね合わせつつ、あらためて占星術を実践するというのはどういうことだろうか?
ということの基本や土台から、考えなおしてみたいと思っています。

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西洋占星術の体験講座
10月22日(水) 14:00〜16:00 

占星術への4つのアプローチと火・地・風・水のイメージについて」

講座概要:
一口に占星術と言っても、実際には様々な占星術への立場やアプローチが存
在し、少しでも占星術に触れた者は意識せずとも何らかの形でそのいずれかに関わっています。

興味深いことに、それらはエレメントという占星術自身の考え方でも捉えることができます。占星術を学ぶということ、そして学んでいる自分の自分らしさを感じ取るということ。
本講座では、各エレメントのイメージの原点に立ち返ることで、そのアプローチの意味や射程を改めて見直してみたいと思います。

担当講師 SUGAR
料金   3,500円

ご興味のある方は渋谷大人の学校
までご連絡ください。
03-3469-3469  Fax :03-3400-4545
shoto@shibuya-school.com

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また、渋谷の大人の学校では、11月より全10回の連続講座を開催予定です。
こちらの詳細は http://shibuya-school.com/pg141.html にてご確認くださいませ。

講座の風景

講座で使われるホワイトボードと、ウィジャボードの“ボード”って、
同じボードなんだな、という当たり前といえば当たり前のことなんだけど、
それまでまったく意識になかった事実に最近ふと思い至った。

もっと言えば八卦盤やホロスコープも同じボード。


board [bˈɔɚd]

1 板
2 黒板
3 (遊戯の)盤
4 パンこね台 
5 会議の卓、会議
6 (航の)舷側、船内


9月に入ってからの、別の学校での別の講座の板書。

生徒さんの出生チャートのディスポジションや仕事についての読み解きをしていく過程と、
おそらく、二つの円が交わっていくことの要点についての図示が混ざっていった様子のボード。
あと日付は課題の提出期限(最近あまり守られていないことが悩み)。



出生天体のサビアンをタロットを使って書き換えてみようという半ば実験的な試みの際、
自分でやってみた際のボード。実際にあった過去のエピソードが、タロットを通して
サビアンとにゅるにゅると結びついていくような感覚が興味深かった。

講座参加者のひとりが、太陽のサビアンとひいたカードの組み合わせを見て、
「なんだか孫悟空とお釈迦様の手みたい」と言っていて、自分もそうだそうだと思っていた。



そうそう、ボードと言えば。
今年の夏に東京都現代美術館で開催されていた「宇宙×芸術展」で見た、
チームラボによるプロジェクションマッピングもとても印象的だった。

正直、僕は横でされていたトークショーよりもこっちに見とれていた。
これは実在の人工衛星「だいち2号」実物大模型へ、その重力へ引き込まれていく滝を投影したもの。

無数の水の粒子やその連続体が相互に作用しながら、人工衛星にぶつかり、跳ね上がっては、
まるで生きもののように人工衛星のまわりを衛星し、そのうちどこかへ消えていった。


ボードの上で、まるで生きているかのように何かが動いていくこと。
そういう動きや、それを成り立たせているボードというもの。
それらに自分は魅せられているのだと思うし、いつもどこかでもっと魅せられたいと思っている。

「夢の跡」とホロスコープ

7月もチェさんの勉強会に通い、芭蕉のおくのほそ道を読んでいた。
ところは既に旅の折り返し地点でありクライマックスでもある平泉。

かつて黄金の王国とも言われた栄華の中枢・奥州藤原氏三代の館跡も、500年後の芭蕉の時代にあっては既にその名残もなくただ廃墟として残るばかり。

思わず「国破れて山河あり、城春ににして草青みたり」と杜甫の詩を口ずさみ、笠を敷いて座せば、落ちる涙。思いを馳せる。過ぎる時間。そして句が刻まれる。

「夏草や 兵どもが 夢の跡」

聞いたことのある有名な句だ(確か漫画『修羅の刻』に出てきた)。
ただし、この句は別の句集(『猿蓑』)で既に詠んであったものを、後に「編集して」ここにくっつけたのだそうだ。つまり実際その場では、句を詠むという行為はされていない。あるいは不可能なほどの状況だったのかも知れない。

であるならば、この句に何を感じ、どう読むか?
チェさんに問われて、直感的にこの問いは句の解釈的な奥行きに関してだけでなく、現実の自分=占星術家としての自分にとってもすごく重要な問題と感じた。

功名と栄誉のために戦った兵ども=藤原氏三代や義経、その忠臣たちも、ついにはこの城に篭って討ち死にし、一場の夢の跡も今では夏の草むらとなっている。

そのことに思いを込めて読めばこの句は、一瞬の内にはかなく消えさる人間と、その跡に生えては枯れ、枯れては生えて、悠久の時間とともに茫々と繁る自然の対比を、特に前者に力点をおいて、そのはかなさを詠んだものとするのがもっともらしい。

確かにそういうふうにも読めるが、と同時にどこか引っかかるところもある。
チェさんは、夢を見ているのは誰か、夢見られているものは何か、考えなければならないと言っていた。

先程の読み方では、「夢の跡」の夢はもちろん「兵ども」の夢ということになる。
→兵ども created 功名(としての夢)
主語は兵どもで、彼らがこの世の功名栄誉という夢を追い、映し出していた。
動詞は過去形(か過去完了形)。すでに終わった話。

これが逆ならどうか?

夢 create 兵ども(の姿)
夢 is creating 兵ども(という存在者)

動詞は現在(進行)形。主語は夢で、夢が兵どもを映しだし、創りだししている。
つまり、事態はまだ終わっていない。続いているし、少なくとも現前している。

夢見られているのは兵どもの一生、ならば、この夢とは誰の夢か?
と言うより、夢というのは、そもそも誰か個人ないし集団が抱く「幻覚」「願望」「理想」といった意味合いの中だけで使われてきたものなのだろうか。dreamの訳語として明治期以降に使われるようになったそれ以前、つまり芭蕉が行きた時代、ないし芭蕉が思いを重ねた中世においては?

竹内整一氏の『やまと言葉で哲学する』によれば、日本人は「夢」という言葉を次の3つの用法ないし志向性において使ってきたという。

⑴夢の外へ・・・この世は夢、だが夢ならぬ外の世界があり、そこへ目覚めていく
⑵夢の内へ・・・この世は夢、ならば、さらにその内へと、いわば夢中にのめり込んでいく
⑶夢と現のあわいへ・・・この世は夢か現か、その「ありてなき」がごとき生をそれとして生きようとする

「⑶は、「夢の外へ」とありありと目覚めようとすることでもなければ、「夢の内へ」と没入しようとするのではなく、「ある」けれども「ない」、「ない」けれども「ある」というあり方を、それとして自覚的に引き受けて生きようとする方向である。「世は定めなきこそいみじけれ」と、無常世界を逆説的に楽しもうとした『徒然草』などに典型的に見られるものである。」(前掲書、p130)

氏はここで夢(ゆめ)を、人が浄土や彼岸へ「こえて」いく際に認識される「この世の像」でもなく、「一期は夢よ、ただ狂え」のように人が狂う際に入っていく「心の世界」でもないものとしての在り方を示唆している。

もう少し踏み込んで言えば、むしろ覚めたり酔ったりする、⑴と⑵二つの動的な相関(出逢い、あわい)に人がたたずんでいられる何らかの場(アクセスポイント)ないし働き(装置)としての「夢」という意味合いが、かつて日本社会の中にあったのだと思う。

そしてその解釈に立てば、芭蕉によって刻まれた先の句は、義経や以下の勇士、そして彼らの生きた一生は、こちらがアクセスして呼び出しさえすれば今もこれからも在り続けるし、いつでも出会うことができるという、じつに生々しい死者たちの臨在の感覚・実感を伝えるものとしても読める。この場合、「夏草」は呼び出すための呼び水であり、検索キーワードのようなものとも言える。

チェさんは「夏草が舞台、兵どもが役者とすれば、夢は脚本家のようなものであり、あるいは深い心の働きであり、これは人間の根本構造ではないか」と言っていたが、一点「夢の跡」とある点についても注意が必要だろう。芭蕉がアクセスできているのはあくまで痕跡であって、夢が兵どもを生成し、顕在化させたその瞬間については直接経験できない。

こうした意味での夢の働きは、「There is a dream、dreaming us.」と言うときのdreaming、ないし、タルコフスキーの「惑星ソラリス」に登場する智慧ある海のイメージに近いかも知れない。

こうした「ゆめ」についての視点の向け変え、ないしそのあわいに立つことは、恐らく占星術におけるホロスコープとはそもそも何かを考える上でも大切な観点になる。

7月からの新講座について@朝日カルチャーセンター新宿校

今月から朝日カルチャーセンター新宿校にて『西洋占星術の基礎』という連続講座を始めます。全4回。

初回は心理占星術研究家・鏡リュウジ氏との対談『今、星占いを考える』。
http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=250787&userflg=0
タイトルの「今」は、時代や社会の映し鏡としての「今」であると同時に、人生の節目としての「今」でもあります。

15歳のとき、古本屋で手に取った『魂の西洋占星術』という鏡リュウジさんの本をきっかけに、転がるように広がっていった占星術の世界。これまで生きた30年のうち、文字通り半生をかけて打ち込んできたものが何だったのか、そして残りの人生でどんな答えを求め、どこにたどり着こうとしているのか。その可能性と、限界と。今回はその両方を見据える契機を、参加者の方とシェアしていきたいと思います。

また『西洋占星術の基礎』の方では、基本中の基本である12星座や天体について扱っていきますが、今回本当に焦点を当てたいのはそれらの個々の解釈ではありません。

例えば数学をやっていくのでもまずは国語力こそが重要であり、それは必ずしもただ正しい文法知識やたくさんの単語を知っていることではなく、むしろ日本語の「響き」や「美しさ」の体感が大切となるように。星を結んで星座とし、天体に神話を重ねてドラマにする占星術の見方、表現に通奏低音のように流れている創造の「波」、言葉の背後にある「思い」を取り上げていくつもりです。





以下、概要について。


■対談概要

「いま、星占いを考える」
http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=250787&userflg=0

人類はこれまで占星術やその解釈を通して、数え切れないほどの悩みや現実と向き合ってきました。そして現代においてなお「星を読む」という行為は、単に「当たる/当たらない」という枠に収まらない営みとして、一個人が人生を賭しても汲みきれないほどの広大さを有しています。そこから今、私たちはどんな示唆やヒントを引き出していくことができるのか。
 
今回の対談では、そうした占星術のエッセンスや解釈のスタイルをめぐって、日本における「心理占星術」のパイオニアであり、また長年に渡りジャンルや業界を越えて活躍し続けている鏡リュウジ氏と語らっていきたいと思います。(SUGAR・記)
 <予定テーマ>
●「占星術で何がわかるのか」
占えるのは恋の行方だけじゃない?!星占いとはそもそも何を知るためのものなのか。
雑誌やテレビだけではなかなか見えてこない、占星術の実態や本質に触れていきます。

●「ホロスコープの見方について」
占星術と必ずセットになっているのが天体の配置図であり、豊かな象徴の世界でもあるホロスコープ。その構造や理解の仕方についてお話していきます。

●「さまざまなアプローチと種類」
一口に占星術と言っても、そこにはじつに様々なジャンルやアプローチが存在します。
多様でありながら互いに有機的に結びつき、補完しあっている占星術応用の実際についてご紹介します。
 


■講座概要

連続講座「西洋占星術の基礎」
http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=250591&userflg=0

生まれてきた時の星の配置を表す出生図の読み方を学んでいく入門講座です。
出生図を深く読んでいくためには暗記した知識ではなくコツが必要です。本講座では毎回講師が厳選したコツをイマージュ豊かな事例とあわせて紹介し、その場で実践していきながら、ご自分への理解を深めていただきます。予備知識のない方、計算が苦手な方、あるいは感性を使って人間への理解を深めていく機会をお探しの方にオススメです。(講師・記)
 
第一回:鏡リュウジ氏との特別対談
第二回:4つのエレメントと3つのプロセスで「12星座」を理解する。
第三回:ルミネーション(月齢)と数の象徴で「太陽と月」を極める。
第四回:3つの構造図をつかって「惑星」を視覚的に使いこなす。

7/9, 7/23, 8/27, 9/24(水)
19:00〜20:30

心のおしゃべりから抜け出す

今年1月から、芭蕉のおくのほそ道を読む、日本の古典読書会に参加している。

具体的には、チェ先生という60前後の韓国出身の方を囲んで、5,6人で月に一度中野のカフェに集まっているのだけれど、
4月初旬の会の内容が妙に心に残ったので、以下に会の様子というか、チェ先生の語りをノートを参考に書き出してみたいと思う。

イントロダクション

なぜ私たちの心はしゃべり続けているのか?
おしゃべりは心臓の鼓動にのって止め処なく続き、
そうやって私たちは「物語」を作り続けようとしている。

なぜ?何のために?
・・・・・・それは、幸せになりたいから。

だからこそ私たちは心臓の鼓動を、おしゃべりを、やめることができない。
けれど、それが同時に私たち自身を束縛する鎖にもなってしまう。
言葉によって陥った不自由は、言葉によってしか抜け出すことはできない。

『おくのほそ道』の「日光」の章の最後に出てくる次の句は、
そのことを踏まえると実に味わい深い。

「暫時(しばらく)は/滝に籠るや/夏(げ)の初め」

この「滝」とは、まさに刹那も止まることがない私たちの心の在り様そのものであり、
また「暫時」は「縛る」から来ている。そして滝に籠るとは、滝の裏へ、
つまり心の在り様の彼方へと踏み入っていくことを暗に言っているのである。
(そう言う意味では、芭蕉を深く学ぼうと、こうして路地裏のこの空間に集まっている私たちもまた、滝に籠ろうとしているのかも知れない。)


この句とセットになっているものに、次のような芭蕉の句がある。

「雲霧(くもきり)の/暫時(せんじ)百景を/尽しけり」

私が夫婦喧嘩をしている時、私の心はたちどころに雲霧のように千々に乱れ、
不安や苛立ち、怒り、悲しみなどを映し出す様々な像が心中に映し出されてくる。
(このとき、チェさんも夫婦喧嘩をするんですか?と誰かが聞いたけれど、直接それには答えなかった)


少し視点を変えてみよう。

地球という惑星を1メートルのボールだとすると、
われわれ生命が生存可能な大気圏内はどれくらいだろうか?


答えは、ほんの紙一枚の厚さである。
そこに生命というのは住まわされ、生かされて在る。


先の二句もそうだけれど、芭蕉の句というのは、いのちを本当にあわれむ熱い気持ちから詠まれている。
私たちは彼を通して、紙一枚の中の濃密な出会いを再発見していくのだ。そういうつもりで読んでいこう。


ちなみに「おくのほそ道」は、リアルタイムな紀行文ではなくて、彼自身の手による旅の手記をもとに、数年後に改めて創作されたものなので、同じモチーフで異なる句が無数にある。滝うらに関する別のバージョンを見てみよう。

「ほととぎす/裏見(うらみ)の滝の/裏表(うらおもて)」
「ほととぎす/隔つが滝の/裏表」

ほととぎす(時鳥)がないているけれど、それが滝の表からなのか、裏からなのか分からない、あるいは、表では聞こえていたのに、裏に入るともうそれが分からないということがここでは詠われている。

これは井筒俊彦風に言えば、「意味を分節すると表だけれど、それ以前の(主客が未分化の状態で一体と成っている)ときは裏であり、そういう表裏の中に私たち(の心は常に)ある」ということになるだろう。


おくのほそ道本文へ、雲巌寺より。

仏頂和尚というのは芭蕉のお師匠さんであり、芭蕉は彼の生き方を表しているうたを冒頭で思い出している。

「竪横の五尺にたらぬ草の庵(いお)/むすぶもくやし雨なかりせば」

ちなみに五尺は1M50㎝くらいで、本来雨が降らなければ、草を結ぶことも必要ない、だから実に不本意である、という心持ちは、芭蕉の生き様もまた彷彿とさせる。彼はそれを師から受け継いだのかも知れない。

ちなみにこの頃のお寺というのは、現代の閑散とした寂しいイメージと随分違って、
大きな寺であれば数千人の出家者が寝起きしているとても活気のある場所だったということも踏まえておくといい。


殺生石・遊行柳

冒頭の馬引きの青年に俳句を要求されているシーンは実に印象的。
当時はごく一般の青年が普通に親しむくらい、俳句が生活に浸透していた。

また、気前よくそれに青年に応え、詠んだ芭蕉の句もじつに素朴で味わい深い。

この章後半の「清水ながるるの柳」というのは、西行ゆかりの柳(新古今集)であり、最後に出てくる句は、芭蕉の研究者の間で今でも論争が続く、非常に解釈が難しい句でもある。

「田一枚/植(え)て立ち去る/柳かな」

普通はこれを「うっかりすごく時間がたってしまった」という芭蕉の心境を呼んだものだと解するだろう。ちょうど五月は田植えの季節でもある。

が、ここでポイントになっている(論争の焦点)のは、「植える」「立ち去る」という動詞の主語が誰なのか?という点。
上記の普通の解釈では、「植える」のは農夫(早乙女)で、「立ち去る」のは芭蕉ということになるが、それぞれに芭蕉、農夫、そして柳の木(柳の精)を想定していくと、実に様々な解釈世界が成り立つことに気がつくはず。

あえて言えば、私(チェ先生)は、「植える」のも「立ち去る」のも人間で、逆に芭蕉が訪ねた柳の木だけが残っている、という風に思える。それは、後に残され、人間を静かに見守ってくれているものに対して、私たちが覚える「拝みたい気持ち」を詠んでくれている気がしてならないから。

この物を思う気持ちというのは、言い換えれば、人間が主で物や自然が客なのではなくて、自然や物こそが主で、私たち人間の方こそが客なのだ、という見方とも言える。


芭蕉には次のような句がある。

「僧朝顔(そうあさがお)/幾死に返る/法の松(のりのまつ)」

これは恐らく、寺院の庭で松の木の下に朝顔が咲いているのを見て詠まれた句。芭蕉はこの句において、朝顔を僧とイコールで結んで「いのちあるものは現れては消える」という同じ事実の内にあるものとした上で、その側にたたずむ松に、なにかこの世を超越した存在の姿をみている。

柳の句も構造としてはこの句と同じではないか。

法の松の「法」とは「諸法実相」、さとりの世界から見た森羅万象の真実の姿の象徴的表現であり、それは「おむすびの海苔」のようなものだろう。つまり、田成るもの(いのちや、いのちの営み)を一枚の「のり」で包んでくれている。

私たちは誰もが、束の間の間あっちから出てきて、暫くの時を過ごしたら、またあっちに帰らなきゃいけない。これも法なのであって、芭蕉の気持ちもそこにある。そしてそれを静かに見届けてくれている松の木へとふっと思いを馳せることで、私たちは救われることがある。そういうものこそが本当の俳句なんだという風に思う。


白川の関

磐城の白河は、奈良時代以前より名所として日本人の心に刻まれてあり、古来より多くの歌の中で歌枕として使われてきた。

おくのほそ道の序章、芭蕉の旅たちの箇所を再び参照されたし。
芭蕉は初めからずっとこの白河の関のことを心に思ってきたので、ここでやっと落ち着きを得る。


須賀川

この章に出てくる岩城、相馬、三春は、そのまま先の東北大震災の被災地である。
そしてここで、世を厭う僧・可伸(かしん)という人物が登場し、彼を思う句を芭蕉は残している。

「世の人の/見つけぬ花や/軒の栗(くり)」

栗の花というのは、桜のように多くの人々に愛でられることもなく、また独特の臭いからむしろ人々から嫌われ、避けられている。
けれど見方を変えれば、そうすることで人々から距離をとって、静かに生きているのだとも言える。一体これはどういうことなのだろうか?

そこで改めて、私たちが一瞬一瞬ごとに、たえず西に向かっている、つまり死に近づいている存在である、ということに思いをめぐらせてみよう。
栗とは、「西」に「木」と書く。

私たちの中には、どうしても、人々に自分を認めてもらいたい、という欲望が渦巻いてあるのが普通だ。
現に、私もこうして先生として皆さんに芭蕉を教えているけれど、立派な先生として振舞えただろうか、目に目やにがついてなかっただろうか、と帰り道にまったく気にならないでいるかと言えば、それは嘘になる。
どこかで自分にとらわれているところがあるし、それこそが「滝のごときおしゃべり」なのだと言える。

けれど、栗の木はそこに無関心である。

西のすみかで、私たち人間よりもっと自分のいのちを伸び伸びと生きている。
それは確かに、世の人が気付かない「花」だろう。
けれど、それは本当のリアリティーの姿でもあるのではないか。
そういう芭蕉の畏敬の念が、この句には込められているように思う。

(ノートここまで。)


以下、自分の感想メモ。

滝のごとき心のおしゃべりを抜け出すということ。

それについて考えていると、ある夜ユングが見た「行者の夢」を思い出す。

小道を歩いていたとき、古い礼拝堂が見えてくる。

その中には祭壇があって、十字架でもキリスト像聖母像でもなく、見事な生け花が飾られている。

そしてその前に、ヨーガ行者がいて、静かに座って瞑想している。

ふと、その行者の顔が自分そっくりの容貌であることが分かる。

ユングは驚きに打たれ、目覚めながら、自分は行者の見ている夢であり、移ろい行く幻のようなものだと思う。

というエピソード。荘子胡蝶の夢ユング版と言ったところか。

あるいは、ユングの見た行者は、芭蕉にとっては柳や松の木だったかも知れない。

いずれにせよそこには見慣れた構図の異化作用があるように思う。

石ころを石ころらしくするということ。


それから言葉によって陥った不自由は、言葉でしか救われないということは、ボルヘスも井筒も取り上げていたけれど、

「句に溺れ 句に救わるる 老いの春」

という、チェ先生が教えてくれた朝日俳壇への掲載句のことが忘れられない。